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(過去作品)天職葉書


 一
 今日、ありとあらゆる情報媒体から、求人広告や就職活動指南が消えた。
赤瑚(あかこ)は街で一番大きな本屋の書棚から就職活動に関する本が回収されていくのを見ていた。去年の夏、あの忌まわしい書棚にしゃがみ込んで、人知れぬようさめざめと泣き、本を汚さぬよう鼻を啜ったのだが、今となっては馬鹿くさくて馬鹿くさくて、忘れたい出来事だった。
 今日、就職浪人一年目の赤瑚のところにも、その葉書は届いた。その葉書によると、赤瑚の「天職」は図書館司書とある。しかし、赤瑚は司書の資格など持っていなかったし、卒業したのは哲学科なのである。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を愛読し、ルソーの研究をして卒業したのである。この街にある国立大学の哲学科において、最後の卒業生の一人であった。葉書の端っこに本当に小さい字で「拒否権は認められています」と書いてあった。
赤瑚は再び泣きたい気持ちになった。

「大丈夫なの? 司書って大変なんでしょう?」

 荷造りの時、赤瑚の母は刺々しい言い方をした。赤瑚は自室のドアをふさぐように立っていた母をすり抜けて、リビングへ逃げたが、母はなおも追って来る。珈琲を飲みながら新聞を読んでいる父に構わず、声を上げる。

「収入も少ないんでしょう? 力仕事や残業が多いんじゃない? あなたは体が弱いでしょう。お客相手も苦手だし。今からでも変えてもらえないの? ほら、公務員とか」
「変えるも何も無いだろう。司書が赤瑚の『天職』なんだから」
「でも、お父さん」
「大丈夫だよ。皆の役に立っていれば、皆が赤瑚のことを助けてくれるさ」


 父は珈琲を一口飲んだ後に、こう言った。


「だから、赤瑚は皆の気持ちに応えられるよう、精いっぱい働きなさい」


 赤瑚は、今度はすべてを殴りつけたい気分になった。

 二
赤瑚は再び大学に通い始めた。司書の資格を取るためである。一昨日届いた葉書と形ばかりの適性検査で編入扱いとなった。
家を出て、街を出て、あらかじめ用意された部屋から大学に通った。家具も家電も学費も生活費も、あらかじめ用意されていた。「天職」を引き受けた者には、その「天職」に就くために必要な資格取得のための助成金が出るのだった。
等しい能力で構成されたクラスで、赤瑚は心穏やかに勉学に勤しむことが出来た。
しかし、別のクラスには「天職」ではないのに司書を目指している学生もほんの数人いた。その人達だけは、赤瑚を大いに軽蔑した目で見た。帰り際に、大きな声を張り上げて、「あー忙しい忙しい」「勉強会行かなきゃ」「バイト行かなきゃ」と言って、赤瑚をチラチラ見た。中にはわざとぶつかって、「あぁ、ご免。昨日バイトが遅くまであってぇ。課題、徹夜しちゃってぇ」とこめかみを押さえる学生がいた。力無い語気に反し、その目は鋭かった。くまの濃く浮き上がった目をことさらぎりっと吊り上げていた。他にも、講義の出席名簿に鉛筆で署名すると、後で消されていて教授が確認しに来たこともある。頭が痛いのはこっちの方だと、赤瑚は頭を抱えた。
気疲れのせいで、赤瑚は熱を出し、大学を休んだ。再び講義に出た時、たった一人の女子学生がレジュメとノートを見せてくれた。にこにこしながら、黙って貸してくれた。
彼女は朱音(あかね)と言って、「天職」ではないクラスの人だった。昼には大学の中庭の隅っこで、バイト先の農家から貰ったくず林檎を二つ食べていた。リスのように両手で持って、小さな口に一生懸命、頬張った。ちょっと屈めた首はすっかり痩せて、襟の伸びたシャツから見える鎖骨はくぼみに水が入るくらい浮き出ていた。
朱音は筆談で会話をした。彼女は人に言葉を発することが脳の性質上、先天的に不得意だったからだ。それにより、朱音は大学で最善の努力を尽くしたが、徒労していた。面倒くさがって、誰も朱音の文章を読まなかったからだ。また、過剰に気を使っては返って失礼であろうと、放任に見せかけた放棄をしていたのだ。しかし、赤瑚は全く苦ではなかった。朱音の文章は豊饒な語彙と瑞々しい感受性、歌い語るような文体で綴られていたので、赤瑚はもっともっと読みたいと、彼女の文章に相槌を打った。
「あなたが私の言葉を受け取ってくれるだけで、私は元気になれるの」
 赤瑚がこの文章を受け取った数日後、朱音は死んだ。死因は栄養失調。まさかこんな時代に、と赤瑚は信じられなかった。
受け取ったよ、受け取ったよ、と呟きながら、赤瑚は家路についた。受け取ったのに、受け取ったのに、と反芻しながら、赤瑚は講義を聞き流していた。受け取ったことがちゃんと伝わっていなかったのかな、と赤瑚は林檎をかじっていた。大学のコンビニで買った、蜜のある大きな林檎である。赤瑚は林檎を座っている石造りのベンチにぶつけてみた。くぼんで凸凹になり、茶色く変色したところを思いっきりかじり取った。そうしているうちに、赤瑚は自分の気楽な境遇とそれに甘えている自分を呪った。


「あ、」


 声に振り返ると、一人の男が立っていた。清潔なTシャツに品の良い形のジャケットを着て、固い表紙の学術書を二冊、片手に持っていた。節くれ立っていないが、決して華奢ではなく、大きすぎない整った形の爪が過不足無くついた、細く筋の通った手だった。


「失礼、」


 そう謝り、男は赤瑚の持っていた林檎に目を移し、


「幽霊かと思った」


 と、細い声で呟き、口元だけで微笑んだ。縁無し眼鏡を通して見える目は寂しげに思えた。薄っすら張った涙の膜で黒目の輪郭がおぼろげに見えたせいだろう。
緋色(ひいろ)というのが彼の名前である。この大学には、まだ哲学科が残っており、彼はそこに通っている。彼もルソーの研究をしていたから、赤瑚は彼と思いのほか話が出来た。彼もゲーテの『若きウェルテルの悩み』を愛読していたので、さらに話が弾んだ。
ある日、赤瑚は中庭で本を読んでいる緋色を見かけ、不審に思って声を掛けた。


「あなた、SPLCテストは?」


 今日は、国が一年ごとに実施するテストで、社会性や人格、問題解決能力やコミュニケーション能力を計り、健康測定や体力測定などと合わせて、「天職」の診断をするためのデータを取るという大切な日だった。
 緋色は赤瑚にはっきり、


「受けません」


 と答えた。眼鏡の位置を指で直し、本に視線を戻した。


「でもそれじゃ、天職を決めてもらえないわよ」
「自分はもう決めていますから」


緋色は将来、大学で教鞭を取る哲学者になりたいのだと語った。


「それに、まるで工業製品のように品質を定められて、ベルトコンベアに流されて、シリアルナンバー付きで市場に晒されるなんて、不愉快ではありませんか」


赤瑚はそう言う緋色の姿を見て、純粋に美しいと思ったし、憧れた。
緋色とは自分達の夢とか可能性とか人間の生きる意義とか、そうした、他愛のない話を毎日した。しかしまたある日、緋色は赤瑚が「天職」を甘受した者だと知ると、


「やはり、女性には哲学が無い」


 と、あっさり愛想を尽かした。
赤瑚は今まで以上に、司書の資格を取るための勉強に勤しんだ。ひたすら没頭した。

 三
赤瑚が自分の街に戻り、街の図書館に勤めて、三年が経った。
赤瑚はそこを「本の海」と呼んでいた。涼しい空調に乗って鼻孔に届けられるインクと紙の匂いは、往来する人達の生活の匂いをすっぽり包む潮の香のようだし、新聞紙をふわっとめくる音は砂浜を撫でる波、文庫本や新書のページをめくる軽快な音は魚が波間を跳ねる水飛沫、ハードカバーの小説や学術書の厚ぼったい紙をめくる固い音はテトラポットに打ち突けられた波のうねりのようだからだ。
カウンターや整理をしている書架の間から、赤瑚はほんのちょっと失礼し、仕事の手を休めて耳を澄ました。波音はいつも同じではないし、波音を聞きながら目を凝らすと、往来する人達は泳ぐ魚や漂う海藻のように見える。
こんな時、赤瑚は人の暮らす社会は愛おしくて面白いと素直に思えるのである。
給料は安いし、大量の本を運ぶなど力仕事が案外多いし、カウンター業務は接客業だから本当にいろんな人がいるし、職場の人間関係もある。だが、退勤後、赤瑚はいつも爽快な気持ちだった。人々の中での生活、社会への奉仕の喜びを知ったのである。
図書館は本当にいろんな人が利用する。それでも、リクルートスーツを着た利用者はもはや異端であった。皆決まって禁帯出の就活指南本を受け取って、ノートに内容を写していた。まるで、写経するように机にかじりついていた。 
本を渡す際、赤瑚は


「複製届けを提出すれば、あちらのコピー機でコピーできますよ」


 と、勧めたのだが、リクルートスーツは「あぁいえ、」と顔を伏せ、本をかすめ取るように受け取り、早足で去った。まるで、あられもない屈辱を味わい敗走するように、赤瑚には見えてしまった。どうやら、コピー代を惜しんで、止むを得ずこの手段を取っているようだった。 
禁帯出とは、館外に持ち出すことが出来ない資料のことで、破損などで読みにくくなる恐れがあったり、刊行から一定期間が過ぎた古い資料だったり、歴史的に貴重な資料がそれに該当する。禁帯出はカウンターの奥の書庫にしまってあるので、閲覧室をウロウロするだけの人は、まずたどり着けない。図書館のホームページの蔵書検索を利用しなければ、一般の利用者には存在すら忘れられる資料だ。
閉館間際に返って来た指南本の中には、ペンや鉛筆の線がそのまま残っていたり、消しゴムをかけられたせいで字が薄くなっているものもあった。そんな傲岸不遜な利用者であっても、優しくご注意いたさなくてはならなかったので、赤瑚は無性に腹立たしくて堪らなかった。
リクルートスーツの中には、赤瑚のいるカウンターに履歴書を持参する者もいた。そのたびに、赤瑚は上司の紅本(べにもと)に応対を頼んだ。


「そんな固くて動きづらそうな服で出来る仕事はありません」


 と、紅本はリクルートスーツを追い返した。いつも決まってそうしていた。赤瑚は、御もっともだと隠れて頷いた。生地は当たり障りのない黒色なのに、チューリップを逆さまにしたようなスカートのデザインは本当に妙で、腰と足の付け根が圧迫されて窮屈だろうに。着ている分にも見ている分にも、暑苦しくて嫌だ。
それでもリクルートスーツが履歴書を差し出して、本に対する愛だの、図書館に対する思いだの、小さい頃に読んだ絵本の感動だのをまくしたてるよう喋り出し、食い下がる時は、


「天職葉書はお持ちですか?」


 と、紅本は聞いた。とどめの一言であった。


「まだいるんだね、ああいう人」


 リクルートスーツが帰った後、決まって紅本は赤瑚に笑いかけた。「参ったな」というように。


「と言っても僕は、あれ着て就職したんだけどね」
「では、心苦しいんですね」
「そうなんだ、ちょっとね。あと自分も昔、あんなだったのかと思うとね」
「でも、紅本さんは自分の力で自分に合ったところに就職して、大成功ではありませんか。どうして、天職制度なんてできたんでしょう?」
「まあ、時代が時代だから。僕達の時代は、自分で探すしかなかったんだ。仕事とは、アイデンティティの一つであり、その形成は個人が時間をかけてやることだと考えられていたからだ。でも、君達の時代はそうじゃない。アイデンティティは趣味嗜好など、複数あるのだから、必ずしも仕事をそれにする必要はない。仕事とは、まず第一に生活の糧であり、社会への貢献なんだ。だから、職業選択と生き甲斐を別個に考えても良い」
「紅本さん、リクルート世代なのに詳しいですね」
「指導係だからね。君達、第一天職世代の」


 そう微笑む紅本に、赤瑚は反論する。


「しかし、生活の糧と社会貢献を職業と生き甲斐から切り離していいものなんですか? 生活や社会貢献の仕方は多様なはずでしょう。ならば、両者を切り離すかどうかも人それぞれでは?」
「だから拒否権が認められているんだ。職業を選ぶ自由も保たれている。表向きは」
「暗黙の了解としては、拒否権は無いと?」
「権利の実行はあくまで自己責任という考えが強い。また、権利の前に僕達には義務がある」
「勤労は権利のはずですよ」
「共に義務でもある。教育と納税と並んでね。つまり、定められた然るべき教育を受けて、然るべき仕事に就いて稼いで、笑って納税。金は天下の回り物だから、お天道様の下でせっせと学び、働かないと、金回りは良くならないよ」


 ちょこちょこひねった言い回しをするなと、赤瑚は頬の内側を軽く噛んで、笑った。


「高い目標なんかいらない。等身大の自分の能力で出来ることをして、共に影響し合う。互助精神と自他共栄、活私開公。そのために、時代は君達を導くことが出来るようになったんだ。君達は恵まれている。今のああいう人は、現実検討力が欠けているんだよ。船で言えば、航海士の計算を無視して、一人ワイン樽のボートで嵐に突っ込むようなものだからね」


 そう言って、穏やかに微笑んだ。赤瑚も微笑み返した。


「この図書館に残っている就活指南本も、もうすぐ廃棄になるかもしれないね。今も細々と刊行しているところが刊行しなくなって、蔵書の資料が古くなれば。何より、これだけ汚れていたら」


 と、紅本は赤瑚の傍にあった就活指南本を開いた。蛍光ペンの線で汚れたページを労うよう指でなぞった。そんな様子を赤瑚は労う。


「もしかしたら、歴史資料として残るかもしれませんよ」
「どうかな? 保存する価値があるのかな。奥に閉じ込められ、忘れ去られ、利用する人がいなくなるだろうに」


 と、紅本は禁帯出の資料が収められた書庫を見つめ、そっと呟きながら去った。
鼻につく発言にもう少し気を使ってくれれば、あの人、もっと好きなんだけどな、と赤瑚はいつも思っていた。
と同時に、就職浪人中の自分を回想し、大いに恥ずかしくなった。自分は一体、何と大それたことを企んでいたのだろうかと。身の丈に合わぬ充実だの満足だの、利己主義に走っていたから、自分の本来の能力を、労働の本当の意義を見誤ったのだ。何と愚かしく高慢なことだろう。赤瑚は自分のかつての恥辱に心が折れそうになった。
しかし、ありがたいことに、そんな風に過去の傲慢さを封じ込めるための心のケアをしてくれる仕事もあったので、赤瑚はそこに通い、今や大いに胸を張って、職務を遂行できるようになった。


「赤瑚さん。これ知ってる?」


 と、紅本に手渡されたのは、一冊の小説だった。題名は『王子の幸福』で、作者は「茜藍架」とあった。


「キャバ嬢の源氏名みたいな筆名ですね」


 紅本は軽く笑い声を立て、


「来週、市民交流事業のビブリオバトルがあるだろう?」
「ビブリオ、バトル?」
「一対一で自分の好きな本、他の人に読んでもらいたい本を紹介し合い、観客の投票が多い方が勝ちというシンプルなイベントだよ。掲示、見なかった?」


 赤瑚は頷いた。しかし、周りの職員がそんな話をしていたのは小耳に挟んでいたので、


「図書館の利用者数と職員のモチベーションアップのための親睦イベントですね?」


 と、補足した。


「そう。それで、この作品を紹介したいんだが、原稿を頼めないかな?」
「私がですか?」
「君は語彙が豊富で、字がとてもきれいだから。あと、客観的な視点を持っているから。僕が考えてしまうと、あまりに主観的で熱がこもり過ぎてしまって、お客さんが引いてしまうんじゃないかと、不安になってね」
「そんなに面白いんですか?」
「ストーリーはそんなに目新しいものではないが、文体のテンポが気持ちよく、言葉が豊かなんだ。これは、人間が書いたものではない」


 赤瑚は「フフッ」と笑い、本を開いた。カバーの折り返しの著者履歴を見ようとしたが、何処にもなかった。


「実は、茜藍架はAIなんだ」


 赤瑚は目を丸くして、紅本を見た。


「この街の国立大学の理工学部が深く関わっている政府公認のプロジェクトで、世界でも完成度が高いと評判だ」
「そうですか。ついに……」
「知っていたか。確か、君の母校だったよね?」
「はい。私がいた頃から、理系はホープでした」


そう呟き、赤瑚は小説の書き出しに目を通した。


「例えば将棋では、AIは一秒間に何千万手のシミュレートが出来る。ならば、人間の知能や個人的なデータをプログラミングすれば、一秒間に何千万通りの人生を体験出来る」
「人生の選択肢の方がもっと複雑では?」
「実際はね。しかし、作家は人生を単純化してわかりやすく解説するようなものだろう。ただし、より感動的に」
「それなら、手はだいぶ絞れますけど、」


 実際はどうなのだろうか……。と、赤瑚は語尾を濁した。


「事例を抽象的にする、すなわちストーリーを作ることは、AIは苦手だったのが、もうここまで出来してまった。その試みの面白さにも、僕は感動したよ。そして、僕ら人間の単純さも思い知った」
「えらく厭世的ですね」
「な、感傷的だろう? このイベントには、茜藍架の開発チームも来るんだ。こんな感情をありのままに話して、場が白々しくなってもいけない。だから、客観的かつ魅力的に紹介できそうな君にお願いしたい……、赤瑚さん?」


 赤瑚にはもう、紅本の声が耳に入らなかった。すっかり『王子の幸福』に没入していた。
 ある貧しい国に、一人の王子が産まれる。その王子は、人に与えられた天性の力を見ることが出来るという不思議な力を持っていた。
この国は常春の気候で、ツバメが作る巣を、民達は主食としていた。食べ物に困らない人は気ままに怠けて暮らした。食べるのに困る人は息を殺すようにひっそりと暮らした。
美しく心優しい青年に成長した王子は、この国を飛び交うツバメ達と協力し、民達を見守った。そして、民一人一人に寄り添うように、それぞれが持つ天性の力を教え、教育を施し、仕事を与えた。
しかし、それを良く思わない民が現れる。政治に関わる大臣などの役職も選挙を行わずに、王子が決めてしまうからだ。今までの役職を変えられてしまった元大臣達は、王子を魔物の子供として裁判にかけ、火あぶりにする。そこに、一羽のツバメが飛び込んで火が消え、王子が灰の中から蘇る。
すると、民達は王子を一層信頼し、健やかに働き、国は豊かになった。
赤瑚は読み進めながら、じわじわと息苦しくなった。豊饒な語彙と瑞々しい感受性、歌い語るような文体で書かれた文章。赤瑚はこの文章に酷似した人間を知っている。
小説の結末、王子が戴冠式で民達に語りかける。王子に御恩を返し、王子を幸福に出来るよう精いっぱい働きます、と言う民達に向かって、


「私は皆の本当の姿を映し出す歪みの無い鏡に過ぎない。私も皆と同じように、あるようにあるだけだ。だから、」


王子の最後の一言で、赤瑚は戦慄した。


「皆が私の言葉を受け取ってくれるだけで、私は幸福になれるのだ」

 五
 ビブリオバトルは盛況だった。赤瑚は簡易舞台の袖から客席を覗いた。老若男女の市民達が、本の紹介に笑ったり唸ったり、中にはほろりとする人さえいた。
対戦者達は正攻法のプレゼンテーション以外にも、一人芝居や朗読、歌、楽器演奏など工夫を凝らした本の紹介をした。ケーブルテレビや地元新聞社の取材も来ていた。
 舞台全体が見られる一番後ろの三席に、仏頂面で、全く無反応な客が座っていた。茜藍架の開発チームだった。赤瑚は、本を抱きしめていた腕に力を込めた。もうすぐ、自分の番が来る。


「君、本を忘れたよ」


 心臓が縮み上がった。振り返ると、紅本が本を差し出している。オスカー・ワイルドの『幸福な王子』で、赤瑚が袖に放っておいたものだ。


「どういうつもりなんだ?」


 紅本の目つきが変わった。赤瑚の抱きしめていた本が、『王子の幸福』だったからだ。


「君がエントリーしたのは、こっちのはずだ」


 赤瑚の手に汗がにじむ。平常を装うために、ゆっくり大きく呼吸をした。


「天職には、天から与えられた、もしくは天性に合った職務という意味の他に、もう一つ意味があります」
「話を反らさないで欲しいな」
「国を統治する職務」
「……何がだ?」
「大きな存在です」
「あのなぁ、君の原稿を使わなかったのは、あくまで僕は客観的な紹介がしたかったからで、」
「胡麻をするのなら、わざとらしい位が良いでしょう」


 紅本が赤瑚の肩を掴み、正面切って睨みつける。


「このビブリオバトルって、茜藍架の宣伝ですよね? 街の予算か助成金、いくらか多く出るんですか?」
「棄権しなさい」
「リクルート世代には分かりませんよ。第一天職世代は、自由意思をじわじわとかすめ取られてきました」
「だから何にだ?」
「何か、私達を包囲する大きな存在です」
「その存在に実体はあるのか?」
「おぼろげながら」


 紅本は大きくため息をついて、


「君の哲学には芯が無いよ」


 と、片手で頭を押さえた。


「みっともないと思いますか?」


 赤瑚は紅本をきっと睨んだ。


「不確かな哲学の切れ端を、未熟なまま闇雲に求めて悩んでのたうち回って、私は中身が無くて醜いですか?」


 紅本が口を動かしたのを咎めるよう、赤瑚は続けた。


「疲れも悩みも知らず、淡々と抜群な仕事をしていくAIの方が美しいですか?」
「AIは、天職制度は、有り余る自由を前に往生している君達の選択肢を、任意で絞っているに過ぎない」
「それでも、私や友達の人生がデータというモノとして扱われるのは耐えられません。ましてや勝手に管理されたり、利用されるなんて」
「AIは、ひたすら客観的な鏡じゃないか。とにかくよく当たる予測をする箱じゃないか」
「そのよく当たる予測が、私の理解を超えていることが耐えられないんです。予測するとは、始まりから終わりを思い浮かべること。始まりが決まれば、予め終わりが決まっているなんて、」
「だからと言って、技術の追及を食い止めてどうなる?」
「暴走の間違いです」
「僕達には、歴史の積み重ねで育んだ学習能力がある。変わりゆく時代に適応する柔軟さもある。そして、その知恵を伝承する言葉、新しいものと携える手もある。そのために、図書館という場所、本という存在があるんだ」
「本も図書館も、データに負ける。だから、紅本さんはその本で舞台に立つんでしょう」


 紅本は黙った。


「電子化が進んで、本という存在は文章という情報になり、データ上での保存や出力の技術が進めば、図書館という場所も価値を見出すのが難しくなる。価値を認めてもらえなければ、街からお金が出なくて、運営に困る」


 苦々しそうな顔をする紅本に、赤瑚はたたみかけた。


「働くって、そういうことなんですか? 多くのニーズと価値をアピールして、結果を出して認められて、お金を貰うことが全てですか?」
「もし、」


 紅本が低く呟いた。決して弱々しくない、芯のある声だった。


「たとえ君の言う通り、結果が全てだろうが、自分の成すことの始まりも終わりも決まっていようが、僕は過程を謳歌する」


 舞台から、司会者が赤瑚を呼んだ。


「そうできると、信じているんだ」


 と、紅本は赤瑚の堅く結ばれた腕から『王子の幸福』を抜き取って、


「あと、結果しか見えない人より、過程が見える人の方が、君の傍にいる人なんだよ」


 と、舞台に出て行った。直後、司会者が赤瑚の棄権を知らせた。紅本は客席が白けるほどの熱気と大声で『王子の幸福』を紹介した。
 それは、舞台袖で赤瑚がすすり泣く声を掻き消した。

 六
今日、国の公的な機関から正式な発表があった。
この国には、もうニートも引きこもりも非正規雇用者もいなくなった。皆、自分のやるべきことに真っ直ぐに行き着けるようになったからだ。過労死もワーカーホリックも労基法違反もブラック企業も無くなった。皆、自分の能力を適した場所でのびのびと生かしていけるから、無理をしなくても能率が常に良いからだ。
皆、優秀。皆、有能で有用。
人々は皆、夢を見ることを忘れ、己の可能性を模索することを忘れ、自分の存在に意味を見出すことを忘れ、晴れやかな顔と健やかな心で働いた。
国はみるみる豊かになった。人々は皆、ただ、自分に与えられた使命を全うして生きるのみである。
赤瑚は悪寒がした。
誰が、何が、私の人生をくれたのだろう……。
皆の中には、あの人もいるのだろうか……。

今日、国の公的な機関から正式な発表があった。
この国にある大学の哲学科が、ついに全て廃止された。

 七
赤瑚はこう思った。


「女性には哲学が無いというのは、ある意味で哲学なのだ」


と、図書館中の哲学書を禁帯出の棚に収めた。鍵をかけてしまうと、赤瑚は鍵を握り絞めたまま、冷たい扉に寄り添うように頬をつけた。鍵を持っていない方の手を口に添えて、


「おやすみなさい。元気でね」


 と、ささやいて、鍵を私服である上着のポケットに入れてしまった。仕事に戻るまでずっと、赤瑚はポケットの中で、自分がやっとつかみ取った「天職」を握りしめていた。
 
風の噂によれば、たった一人の友達は郷里の予備校で週三回、倫理を教えているらしい。

こうして皆、元気に暮らしていった。


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