スリー_ミニッツ_カラフル_コード

スリー・ミニッツ・カラフル・コード

薄暗い。ほこりっぽい。降水確率ゼロパーセントの晴天の下、わたしたちは体育倉庫につめこまれている。
カゴいっぱいのバレーボール。古めかしい跳び箱に、器械体操用のマットレス。蛍光ピンクがまぶしいゼッケン、ラバーの端がはがれかけた卓球のラケット、無数のピンポン玉。いつも収納されている運動用具たちは、すべて裏手のグラウンドへと運ばれていた。
すっかり覚えてしまった五線譜にもう一度目を通す。時折ふるえる電灯の明かりを頼りに音符をながめていると、弾きなれたピアノの音でメロディが流れだした。鍵盤をたたく自分の指先を思いうかべる。一つひとつの音がはじけて、遠ざかる姿をイメージする。
校内合唱コンクールの発表順が、次にせまっていた。たった十段の階段だけが、即席の控え室となった倉庫からステージまでをへだてている。

「漣(さざなみ)さん、緊張する?」
隣に座っている水川(みずかわ)さんがたずねてきた。うんうんうん、と首を縦にふる。ピアノの前に座ってしまえば全然平気なのに、その瞬間を待つ時間はすごく落ち着かない。心臓の音って、ほんとにドキドキ聞こえるんだよね。
「私も頑張って、音はずさないように歌う!」
「人って三回書いて飲みこむといいよー」
「あたし、それ、受験のときやったなあ」
「あんなに練習したし、大丈夫だよ」
口々にはげまされて、思わず顔がほころぶ。ちょっとだけこわばりがとれて、息もしやすくなる。入学してから二か月後の合唱コンクールは、わたしたちにとって初めての集団行動だった。
「水川さん、緊張しないの? 指揮者なのに」
「するよ? でも漣さんのほうが緊張してるから、なんかどーでもよくなってきちゃった」
「雑だからなー、水川は」
「え、何か言った?」
男子から飛んできた軽口をさらに軽く切り捨てる口調がおかしくて、みんなでくすくす笑いあった。やわらいだ雰囲気に、もっと息がしやすくなる。
ぴん、とはりつめた空気が流れこんできたのは、それから何分も経たないうち。
前のクラスの伴奏者が、舞台の上で静かにドの音を鳴らす。余韻に耳をかたむけながら、声を、息を、整える気配。いつもはだれかが走りまわっている体育館も、今は物音一つしない。
一年八組の大地讃頌、約三分間の合唱が始まる。

『母なる大地の ふところに』
『われら人の子の 喜びはある』

短い前奏が耳に届いて、視界がやわらかな色あいで染まった。続く歌をリードする伴奏の調べが、水面にうつりこんだ花火みたいに、ゆらゆらとわたしをつつむ。
黄緑、桜、橙のグラデーションが濃度を変えながら広がっていく。たっぷりと水をふくませた筆から落とす絵の具が、真っ白な画用紙ににじんでゆくように、ゆるやかでいてとまらない鮮やかな波紋。
わたしの弾くピアノの音と同じ、色彩のイメージ。
舞台で奏でられている旋律は、わたしの音色と同じだった。


初めてピアノを弾いたのはいつだったんだろう。幼稚園に通うころにはもう、ピアノにさわらない日なんてなかったと思う。お姉ちゃんは練習をいやがって、小学生のうちにやめてしまった。わたしはいやな気持ちになることもなく、ずっと弾き続けてきた。
上手になりたかったわけじゃない。誉められて、うれしかったわけでもない。指先で音を出すのは面白かったし、いろんな曲を弾けるようになっていくのがただ、楽しかった。

それからもう一つ、ピアノにさわりたくなる理由がある。
音を聴くと、わたしの目の前にはなぜか、たくさんの色があふれた。赤だったり、青だったり、名前を知らない色だったり、単色だったり、たくさんの色が順番にうかぶこともある。色たちは勢いよく吹きだすシャボン玉のように、次々に現れては消えていった。
だけどそれは、すてきな音を聴くときにだけ見えるわけじゃない。工事中のドリルがコンクリートを削り、トラックが黒い排気をまきながら通りすぎ、飛行機が雲を切り裂いて進むときにも、色たちは容赦なく押しよせてきた。
わたしはいつも、数えきれない音を聴きながら、数えきれない色を見ていた。その中にはどうしても好きになれない、気持ちわるい色だってあった。目をつぶっても、印象の強いカラーはなかなか消えてくれない。そういうときは自分でピアノを弾いて、大好きな色で塗りつぶした。

おかあさん、このピンクいろ、きれい!
ピンク? ……どこにあるのかしら。

しばらくして、その色を見ているのは自分だけなんだと気づいた。
だけど、どうしても、見えるものは見える。だれにも言わないようにしたのは、みんなが不思議な顔をするから。つい話したくなるほどヘンテコな色あいを見ることは少なかったし、かわいい、きれいな配色に落ち着くことのほうが多かったから。
小学校を卒業した。中学校を卒業した。大きくなるにつれて、色の見え方は薄れていく。幼いころに見ていたほどの鮮烈なイメージは、もうめったに見なくなった。そう思うとなぜか、ちょっとだけ寂しい。
音を聴いても色を見ないようになったとき、わたしは大人になるのかもしれない。

『大地を愛せよ 大地に生きる』
『人の子ら 人の子ら』
『人の子その立つ土に感謝せよ』

八組の大地讃頌が体育館いっぱいに響きわたる。
間奏が色をのせて、途切れなく続いていく。


『平和な大地を 静かな大地を』
『大地をほめよ 讃えよ土を』

「八組、うまいねえ」
「だれも音はずさないね」
出番にそなえて整列しながらひそひそ声で話しあう。無意識に、跳ね上がりそうになる鼓動を両手でおさえていた。胸もとに押しつけすぎて、楽譜がくしゃりと音を立てる。
バス、テノール、アルト、ソプラノが次々に登壇する横で、伴奏者がピアノの前に座る。最後に指揮者がステージ上へ。音をあわせるためにドを鳴らす。タイミングを見計らって、指揮者が手を上げる。みんなは歌う体勢に。伴奏者は弾き初めの鍵盤に指先をはわせる。
一度リハーサルをしたはずなのに、どうしてあがっちゃうんだろう。さっきまでなごんでいた控え室の空気も、今はひんやりと感じられた。たまらなくなって目を閉じる。まぶたの裏に、わたしだけのカラフルな世界を見る。

黄緑、桜、橙は、わたしの音色と同じ色。自分のピアノ以外の音で見られるとは思わなかった色彩がいっぱいに広がる。水玉の姿をした混声合唱が川のように流れていく。
バスは絣の紺。テノールは古いレンガの赤茶。アルトはお昼の空、ソプラノはたんぽぽの黄。フォルティッシモで密集し、ピアニッシモでまばらに散る。
八組の大地讃頌は美しかった。特別に声を張り上げる人がいるわけでもなく、調和して心地よく聴こえた。そういう音色はきらきらしていて、ずっとながめていたくなる。
そういえば、だれが伴奏なんだっけ。わたしのピアノを聴いたとき、何かを思ってくれたらいいな。同じ色は見えなくたって、何かを感じてくれるとしたら。

「八組の伴奏って、だれだっけ?」

心のままに口にした疑問が、静かな室内に響いてしまった。みんながわたしのほうを向いて、だれだっけ? という顔をする。何もわるいことはしていないけれど気恥ずかしい。うまく、愛想笑いを返せたかどうか。
整列のときも隣にいる水川さんが思い出すように上を向いて、川原(かわら)だね、と答えてくれる。たちまち周りに伝わって、しんとしていた部屋の中に会話がよみがえった。
「そうそう! 一年でひとりだけ、男子の伴奏だったよ確か」
「リハーサルのときも、うちら控え室だったし見れなかったね」
「水川さん、川原くんのこと知ってんの?」
「陸上部で一緒。グラウンドぐるぐる走るの男女合同だし、たまに話すよ」
「うええ、きつそー」
「運動できてピアノも弾けるの? なんかカッコいいねー」
「んー、でもいつも、何考えてんのかわかんない」

川原くん。かわらくん。顔も姿も知らない人が、わたしと同じ音色を響かせている。
不思議で偶然で、予想もしていなくて、走り出したり歌い出したり、想いを外に向けて放ちたくなる気持ち。胸がじんわり温かくなって、本番直前の緊張感がほぐれていく。

『恩寵の豊かな 豊かな大地 大地 大地』
『讃えよ 讃えよ 土を』
『(われら人の子の われら人の子の)』
『(大地をほめよ ほめよ讃えよ)』


クライマックスをむかえる大地讃頌に耳をかたむける。色とりどりの世界と、みんなの顔がだぶって見えた。楽しそうな顔。落ち着かない顔。舞台の様子をうかがう顔。もう一度歌詞を見つめなおす顔。
不意に、去年亡くなったおじいちゃんの言葉を思い出した。小さなわたしを膝にのせて絵本を読んでいたとき、きっと、何かの色を見たんだ。

それは共感覚、というそうだよ。

キョウカンカク? わたしが理解できるはずもなかった。聞いたことのない、難しい単語だったから。そのときはまだ、幼稚園に行っていたかもわからない。

きれいな音を聴いて、すてきな色が見えてくるなら、とても素晴らしいことだ。
おじいちゃんには見えない。だから、お前がその色たちを大切にしてやりなさい。
他の人には見えなくても、お前が見えると言うのなら、おじいちゃんは信じているよ。
みんなと違うということを、自分で感じられるなら、だれかがみんなと違っていても、お前だけはわかってあげられるのだから。

『母なる大地を 母なる大地を讃えよ』
『ほめよ讃えよ土を』

音を聴いても色を見ないようになったとき、わたしはどうなっちゃうんだろう。
しばらくは、この色たちを失いたくない。今になって、初めて強く思った。
黄緑、桜、橙。黄緑、桜、橙。じわりと現れては薄れ、またにじみ、また薄れる。鍵盤をたたく指の動きにあわせてゆれる、わたしだけの景色。
これから始まるわたしたちの大地讃頌に、これから奏でるわたしのピアノの音色に、川原くんは何かを感じてくれるのかな。もしも感じてくれるなら、ううん、感じてくれなくても、あなたと話がしてみたい。

『母なる大地を ああ』
『讃えよ大地を ああ』

せっかちなバスの男子が階段に足をかける。その姿勢のまま、八組の面々が壇上から降りるのをじりじりと待った。舞台の向こう側からゴーサインが出て、ようやく進みだす。
みんなが登壇する横で、わたしはピアノの前に座った。最後に水川さんがステージ上へ。音をあわせるためにドを鳴らす。タイミングを見計らって、水川さんの細い手が高く上がる。みんなは歌う体勢に。リハーサルよりも落ち着いた気持ちで、初めの鍵盤に指先をはわせた。

短い前奏が始まって、わたしの音が響いていく。
約三分間、体育館は一年五組の色に染まる。


スリー・ミニッツ・カラフル・コード 終
再掲元:pixiv 2010/10/25

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