【朗読】彼の景色
T町の北の交差点を西に折れ、私鉄のデコボコしている踏み切りを渡り、真っ直ぐに伸びる二車線の道路を愛車でのんびり走っていると、裕美はなぜかいつも遥か昔に別れた彼のことを思い出した。
その彼と最後に会ったのは大学生の時だから、かれこれ五年は経つ。
今は別の人と付き合っていて、普段は五年も前に終わった恋人のことなど思い出したりしないのに、この道の何の変哲のない、少しくたびれた家々が並ぶ風景を何となく眺めている時に限って、裕美はそのかつての恋人のことを思い出すのだ。
思い出すと言っても記憶に残るようなロマンティックなシーンではなく、彼と裕美のどうでもいいような日常の断片だった。
例えば、お昼は何を食べようかとか、今週はバイトがきつかったとか、その時の空の色とか、どうしてそんなものを思い出すのか理解に苦しむような、脈絡のない普通の会話の途中を切り取った断片的な彼の声と言葉の羅列が、裕美の頭の中を通り過ぎるのである。
彼を乗せてこの道を走った記憶はない。車だって就職してから買い替えたので、彼との繋がりは何もないはず。
にもかかわらず…どうしてなのかな。
その人が忘れられなくて、ということはない。普段は全く思い出したりしないし、恋愛をしている最中はとても好きだったが、今となってはその恋も彼の魅力も「昔のこと」というラベルが貼られて、裕美の中のどこかにひっそりと仕舞われている。
彼と一緒にデートした場所の風景がこの道の風景と似ていて、だからこの道を通るたびにその記憶の引き出しから、適当に出たら目な断片が引っ張り出されるのかしら。
車の運転が好きな裕美は、月に一度この道を通り、片道一時間近くかかる離れた街にある美容室に通っていた。
大学生の時からお世話になっている、お気に入りの美容師が店を移るたびに、裕美もくっ付いて行く格好で、最初はのんびり電車に乗って二十分ほどだったのが次第に遠くなり、去年その美容師が独立して自宅で開業してから、車で行くようになった。因みにその美容師は男性だ。不思議な記憶再生現象が始まったのはその時からである。
「ちょっと謎ですね」
クリスマスをいよいよ来週に控えた日曜日。髪を切ってもらいながら、雑談がてらに、美容師さんにその現象のことを話してみると、予想通りの反応が返ってきた。
「そうなんです。その道を通る時だけ。しかも行く時は何も感じないのに、いつも帰りの道の決まった場所に差し掛かると、誰かがボタンを押したように“彼の景色”が再生されるんですよ」
「彼の景色?」
「その変な現象に名前をつけたんです」
「面白い着想ですね。彼の景色か。確かにそうだ。こんな感じでいかがですか?」
「うーん、もう少し前髪を切ってもらおうかな」
鏡に映る自分の顔を見ながら、裕美の意識は、もう会うことのない人の記憶の上を漂う。
“彼の景色”の彼は、今頃どうしているかしら。元気かな。
新しい彼女は・・もう結婚している可能性もあるわね。だって二十七歳だもの。わたしは、あの時と大して変わらない。伸ばしていた髪を切ったぐらい。
別れた理由は忘れたが、喧嘩したわけでもなく、忘れてしまうほど印象に残らない、自然消滅的なものだった気がする。
美容室から出て、店の前の一台分しかない駐車場に停めた愛車に乗り込みエンジンをかける。
今の季節は日陰に駐車すると車内が氷のように冷え切ってしまうが、ここは南向きで、裕美が髪を切っている間もサンサンと太陽の光がが降り注いでいたからポカポカと暖かかった。
ゆっくり車をスタートさせて帰り道をしばらく走ると、“彼の景色”の道に差し掛かる。するといつものようにパッチワークになった彼との記憶が再生されはじめ、裕美の心を優しい懐かしさで包んだ。
まるで、厳しい冬の最中でもポカポカと暖かい陽だまりみたい。
彼もこの空の下のどこかにいる。
わたしのことを、たまには思い出したりするのかな。
わたしと同じように…。
その淡い記憶の温もりの中で、もしかしたら、わたしも彼の陽だまりなのかもしれない。
𝑭𝒊𝒏
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