日食・月食・迷信

 父の介護をしていた時、日食が起こった。父が寝ていることを確かめて玄関を出たところで夢中で写真を撮っていたら、父が起きてきて「何してるんだ」と呼びかけたので驚いてしまった。その頃は父は自力で歩こうとする気力もなくしていたからだ。日食に何か父を奮い起こす力があったのだろうかとこの日のことを後に何度も思い出した。

 古代ギリシア、アテナイにおいて、アナクサゴラス(前500-428)は、日食と月食について、それぞれを地球や月が太陽の光を遮るので起こり、月の光は太陽の反射にすぎないと説いた。

 ペルシア戦争の前駆であるリュディア・メディア戦争の最中に突如として皆既日食が起こった。後にアテナイを三十年にわたってアテナイを支配することになるペリクレスが、ペロポネソスに攻め入ろうとしていた時、出発間際に日食が起こった。水夫たちは、これを何かの前兆ではないかと恐れ、狼狽した。その水夫たちの前に、ペリクレスは自分のレインコートを広げ、水夫たちの視野をそれで覆った。これが何か恐ろしいことの前兆か。否。それならば、これとあの日食に何の違いがあろう。ただ目の前を暗くするものが、レインコートより大きいだけのことだ。

 このペリクレスの説明は、先に見たアナクサゴラスのものだった。ペリクレスが凡庸な政治家と異なっていたのは、アナクサゴラスに学ぶところが少なくなったからである。

 ところが、ペリクレスの死後、シシリー島で起こった月食は、アテナイに不幸な結果をもたらした。兵士たちだけではなく、将軍のニキアスが、この月食に不幸の前兆を感じてしまったのである。そのため、その時の戦況は、アテナイ軍がシュラクサイから即刻、撤退することが必要であったにもかかわらず、出発を延期したばかりに、多大な損害を受けることになった。シュラクサイ脱出の機会を逸したため、湾の入り口は敵によって閉鎖され、アテナイ軍は海陸からの攻囲によって全滅してしまったのである。

 ペリクレス時代の啓蒙は一体どこへ行ってしまったのか。ニキアスのような迷信が横行するアテナイ人はもはやアナクサゴラスの学説に耳を貸そうとしなかった。

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