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やりきれない時はノートを書く

2024年2月18日
 その後、喘息発作は出なかったが、風邪を引いたと電話をかけてきたと電話をかけてきた孫がその後コロナ陽性であることが判明した。もう長く会えていない。
 今日は講演会。毎月一回、今年は九年目になる。その時々で考えている古都を話したり、アドラー心理学の基礎理論について話したりしている。その後の質疑応答がメインなので短く切り上げようと思うが、話し始めたらいろいろと話したくなる。
 今日は課題の分離について。人と人はつながっているというのがアドラーの考えだが、そのつながりは意識的に形成しなければならない。あるべき人とのつながりについてアドラーは語っているので、理想論だという人もいるが、理想だけが現実を変える力がある。
 Blueskyに少し投稿をしてみた。今はもっぱら英語で書いているが、日本語で書くかもしれない。
https://bsky.app/profile/ichirokishimi.bsky.social
 森有正の日記が残されている。森はフランス政府留学生として渡仏した。東京大学の文学部でフランス文学を教えていたが、職を抛ってそのままパリに留まった哲学者である。
フランス語で書いたと思っていたが、読み返すと、書き始めた頃はほとんど日本語で書いている。日記は一九五四年五月一八日から始まるが、一九六〇年前後からほとんどがフランス語で記されている(フランス語原文は翻訳されたものが読める)。
 日本語で書いたものは森の自筆のオリジナル稿が残っている。フランス語で書いた自筆オリジナル稿はほとんど残っていない。日記のフランス語原文は、①若干の自筆原稿②タイプ稿に加筆・訂正などの見られるもの③浄書と見なされるタイプされた定稿である。刊行の意図はなかったはずだが、毎日、日記を書き上げるのにかなりの時間を費やしただろう。
 そのまま刊行するつもりはなかったが、日記は森にとって思索の糧だったであろう。この日記の一部は『砂漠に向かって』という題して生前発表された。日記そのままではないだろう。
 その『砂漠に向かって』を読むと、森がノートをつけていたのがわかる。
「ノートをつけていると何となく気がしずまるので、やり切れない時はいつもそうすることにしている」(『砂漠に向かって』)
「そういうノートはあとになってみると何の意味もないことしか書いていないのが常である」(前掲書)
 しかし、そんなこともすべて書き留めてこそ人目に触れる作品になる。
「灰色の陰鬱な日々に耐えることが出来なくてはならない。というのは、価値ある事が発酵し、結晶するのは、こういう単調な時間を忍耐強く辛抱することを通してなのだから」(前掲書)
 孫たちと会えないのでこの頃は朝から深夜まで原稿を書いている。

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