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私的でない共同の劣等感

2024年3月28日
 先週は孫たちの父親がインフルエンザに罹患、孫たちを夜も預かることになった。二人で寝てくれるのだが、親から離れて眠る日が続くと夜中に起きて泣くこともあった。無事、また元の生活に戻れた今、無事に過ごせることがいかにありがたいことかがわかる。
 一度、孫が講義中に部屋に入ってきた。大きな声を出すかもしれないと一瞬身構えてしまったが、その日使っていた鉛筆を返しにきたのだった。彼はそっと入ってきて画面をちらっと見て、声に出さないで「ありがとう」といって、またすぐに出ていった。こんなことがあるだけで嬉しくなる。
 今日はNHK文化センターの最終講義。近年はアドラー心理学についてだけ話すことは少なくなったが、今回は前半と後半にわけ一年アドラー心理学の話をした。
 今日は最終回なので勇気づけの話をしようと思っている。人生には仕事や対人関係など避けることができない課題が多々あるが、何かの理由を持ち出して課題から逃げ出さないで直面する勇気を持ちたい。この勇気を持って課題に取り組むのは本人であって、まわりの人ではない。
 例えば、勉強するのは子どもの課題だが、親が子どもに勇気を与えることはできない。もしもそのようなことができるのであれば、親は自分が子どもにさせたいこと(今の例では、勉強)をさせるために子どもを勇気づけることで子どもを支配できることになる。
親ができることは勇気を与えることではない。アドラーが次のようにいっている。
「自分に価値があると思える時にだけ、勇気を持てる」(Adler Speaks)
 子どもが勇気を持ってどんな課題に取り組むかは、子どもが決めることであり、親は決められない。子どもが自信を失っており、つまりは課題に取り組む勇気を欠いているとしても、親が子どもの課題を肩代わりすることはできない。親ができるのは、子どもが自分に価値があると思える援助だけである。それしかできない。
 講義の時間が近づいてきたのでもうあまり書けないが、アドラーが個人の幸福だけを問題にしていないことも講義の中で言及するかもしれない。アドラーは「私的でない共同の劣等感」という言葉を使っている。
 この世界には悪や困難、あるいは偏見があるけれども、そして、そのようなものがあるが故に、私的ではない共同の、つまり世界に共通する劣等感を我々は持っている。けれども、この世界にある問題を決して克服できないとは考えてはいけないのである。

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