幸福に生きるためのアドラー心理学

(日本心理学会第78回大会シンポジウム「人間関係の問題を人生の課題としてアドラー心理学から考える」での発表原稿)

 ソクラテスが青年に害悪を与えたというかどで訴えられたのは70歳の時でした。結果、彼は死刑になるのですが、法廷での演説の冒頭、この年で初めて裁判所にやってきたので普段と同じ話し方をしても驚かないでほしい、言葉使いのことはあっさりと見過ごしてほしい、ただ私がいっていることが正しいかどうかということにだけに注意を向けてほしいといっています。私は普段は『嫌われる勇気』に登場する哲人と同じく古都のはずれでひっそりと暮らしていますから、これほど多くの人の前に出るとどぎまぎしてしまいます。私もソクラテスと同じことをお願いしなければなりません。

 アドラーは、
 「自分に価値があると思う時にだけ、勇気を持てる」
といっています。ここでいう「勇気」とは「対人関係の中に入っていく勇気」という意味です。対人関係の中に入っていくことになぜ「勇気」がいるかといえば、人と関わる時、いつもいい関係を築けるわけではなく、傷ついたり悲しむことになることがむしろ常であるといっていいからです。アドラーが「すべての悩みは対人関係の悩みである」といいきっているように、カウンセリングのテーマは対人関係以外のものはないと断言しても間違いはありません。

 たしかに、誰とも関わらなければ悩みも生まれないでしょうが、人を避けて、一人で生きていくことはできません。そこで、何とかして対人関係の中に入っていく勇気を持てるように援助をしたいのです。そのためには、アドラーがいっているように、自分に価値があると思えなければなりません。自分に価値があると思えれば、そんな自分を好きになれ、人との関係の中に入っていこうと思えるようになるでしょう。

 問題は神経症を理由に人との関係に入れないという人が実はそうすることを少しも望んでいないということがあることです。もしもこの症状がよくなれば、といいますが、その症状は人との関係を避けるための口実として必要なものですから、何らかの仕方で症状を除去すれば、アドラーの表現を使えば、たちまち別の症状を何のためらいもなく身につけるのです。

 ですから、対人関係の中に入っていかないと思っている人が対人関係の中に入っていけるように、いわば城の外堀を埋めていくようなことをカウンセリングではしなければなりません。自分に価値があると思えれば、自分のことが好きになれ、症状も必要ではなくなります。しかし、対人関係という現実の中に入っていけば、傷つくこともありますし、若い人であれば、好意を持っている人にふられるというような現実に直面することもありますから、そんな現実に直面しないために自分に価値があるとは見ないでおこうと考える人に自分に価値があると思えるように援助することは簡単なことではありません。

 それでは、どうすれば自分に価値があると思えるように援助することができるでしょう。
 
 先の引用に続けてアドラーは次のようにいっています。

 「私に価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時だけである」

 自分が役立たずではなく、自分の行動が共同体(例えば家族)に有益であり、そのことによって誰かに役立てた、貢献できたと思えた時、そんな自分に価値があると思えるのです。

 アドラーは、ここで「私の行動が共同体にとって有益である時」という表現をしていますが、「行動」だけではなく、「存在」そのもの、生きていることそのことが、例えば家族に貢献するということは当然あります。生まれて間もない子どもも、介護の必要な高齢の親も行為の次元では何一つ有益なことはできず、何も貢献していないように見えても、生きていることがそのままで家族に貢献していることを、子育てや介護に関わった人であれば実感できるはずです。

 行動だけでなく、自分が存在するだけで、自分には価値があると思え、そう思えることで対人関係に入っていく勇気を持てるように援助をすることをアドラー心理学では「勇気づけ」といっています。

 具体的には生活のあらゆる面で「ありがとう」や「助かった」と言葉がけをすることで、そのようにいわれた人が自分に価値があると思えるよう援助するのです。

 もっとも今は立ち入ることはできませんが、他の人から「ありがとう」「助かった」といわれることを期待することはできません。「ありがとう」と人からいわれることを期待する人は、承認欲求にとらわれているといわなければなりません。承認されることではなく、貢献することで自分に価値があると思えるようになりたいですし、貢献感があれば承認欲求は必ず消えます。

 次に、対人関係を避けたい人は、そうするために、不安という感情を創り出します。例えば、人と会うことを怖れる人は、不安なので会いたくない、それどころか外に出たくないというでしょう。しかし、本当は、人に会わないために不安という感情を創り出すのです。

 そのような人が対人関係を回避することがないように、エネルゲイアとしての人生を生きることを私は勧めています。

 アリストテレスは、運動には二つの種類があるといいます。一つは「キーネーシス」といわれる動きで、これには始点と終点があり、始点から終点までを可能な限り効率的に動くことが求められます。そして、終点に着くまでの運動は、そこにまだ到達していないという意味で不完全です。

 もう一つの種類の運動をアリストテレスは「エネルゲイア」(現実活動態)と呼んでいます。二人がダンスをする時の動きがエネルゲイアの例になりますが、ダンスを終えた時に、結果として遠くまで移動しているということはあっても、どこかに到達するためにダンスをする人はいません。「今」「ここ」でダンスをしているその時々の動きがそのまま完全なのです。アリストテレスの表現を使えば、エネルゲイアにおいては、「なしつつあること」が、そのまま「なしてしまった」ことです。

 それでは生きることはどちらの種類の運動かといえば、後者、エネルゲイアです。たしかに、始点(誕生)と終点(死)があるように見えますが、効率的に生きることには何の意味もないからです。起こるかもしれないし、起こらないかもしれない先のことなど少しも考えないで、毎日を丁寧に生きていけば、不安という感情は必要ではなくなります。

 人と会った時に何が起こるかは全く予想することはできません。それならば、いたずら
に怖れる必要はありません。私を嫌う人はどんなことがあっても私を嫌うでしょうが、何か問題が起こるとしても、その時考えればいいので、会う前からあれこれ考えなくてもいいのです。

 人生全般についても、人生は連続する刹那であって、過去も未来もありません。過去は、対人関係が今うまくいかないことの免罪符にはなりませんし、未来に感じる不安も、対人関係を避ける理由にはなりません。過去に何があったか、未来がどうであるかは「今、ここ」で考えてもしかたありません。

 今日であれば、"Be here and now"とか" right here and right now"(後者はエーリッヒ・フロム)というところでしょうが、アドラー自身はそういう言葉は使っていません。

 アドラー自身の言葉に即していえば、sachlich(即事的、Sache、事実、現実に即して)に生きるということです。何かが実現すれば初めて本当の人生が始まると考えれば、今は未来の準備のためのものになってしまいます。そうではなくて、今だけが現実なのです。「もしも〜ならば」と可能性にばかりかける生き方(神経症的論理)から脱却する勇気がここでも必要です。

 たしかにアドラーがいうように、すべての悩みは対人関係の悩みであるといい切れるほど対人関係は悩みの源泉であるといえますから対人関係を避けたいと思う人はあるでしょう。しかし、傷つき悲しむことを怖れていれば誰とも深い関係を築くこともできません。深い関係に入らなければ生きる喜びも感じることができなくなるのです。


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