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「なんにもどうでもかまわない」

2024年3月11日
 時折雪が舞う日があったり、暖かい日があったりして身体がついていかない気がする。
池田晶子が藤澤令夫の追悼文の中で、
「学問と人格とが、その覚悟において完全に合致した氏の姿は、本当に美しかった」(「哲学者 藤澤令夫さんを悼む 善く生きる」覚悟の美しさ」)
と書いていることを紹介したが(3月5日日記)森有正が次のようにいっていることを思い出した。
「僕の若い日の熱情は、学問と音楽と、そして、美しい人と一緒にいて話をしたり信頼し合うことだった」(『バビロンの流れのほとりにて』)
 この美しい人は女性のこともあったし、男性のこともあったと森はいう。「美しい人」との邂逅は生きる喜びである。ここで森が使う「熱情」という言葉は、辻邦生の次のような説明を読むとそれがどういうものかがわかる。辻は、そこに身を置くと、どんなに宇宙が崩れようと、平気だと思える、また、いつもそこに身を置けば、楽しく、いきいきとしていられる「生命のシンボル」を発見した時にそういうものを友達に、後の人たちに伝えたいといっている(『言葉の箱 小説を書くということ』)。生命のシンボルは、人の生きる根源の力になる。
 九鬼周造がこんなことを書いている(『悩める時の百冊百話』でも取り上げた)。作家の林芙美子が北京への旅の帰りに、九鬼のいる京都へ立ち寄った。林が何かの拍子に小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて皆で聴くことになった。
「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」(「小唄のレコード」『九鬼周造随筆集』所収)
 九鬼は林のこの言葉に「心の底から共鳴」し、こういった。
「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」(前掲書)
 私は学生の頃、オーケストラでホルンを演奏していたので、他のことはどうでもよくなるという気になると林や九鬼がいったことの意味がよくわかる。
「私は端唄や小唄を聴いていると、自分に属して価値あるように思われていたあれだのこれだのを悉く失ってもいささかも惜しくないという気持になる。ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる」(九鬼周造、前掲書)
 なぜこんなに好きなのか、合理的な説明はできない。しかし、できなくても、熱情を向けられるものがあることが生きる喜びになる。

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