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聖アンデレ(3-C) 信者ネットワークづくり

古代のキリスト教のネットワークというと、ローマ帝国下で置かれた5つの管区のことを思い浮かべる方も多いでしょう。5管区の大司教は、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、エルサレム、アンティオキアそれぞれの教会(五本山)に常駐し、各管区を統括していました。

それより以前では、聖パウロの布教を思い浮かべる方も多いでしょう。異邦人伝道を自らの役目と認識した聖パウロは、エフェソス、コリントス、テッサロニケ、タルソス、アンティオキアなど、ヘレニズム文明を支えたギリシャ都市を巡りながら布教し、ローマ帝国での布教拡大の素地を整えていきました。

また、聖フィリポの弟子シモンによる布教興行がありました。これは、教義の内容を、お芝居や音曲などの興行として展開するものですので、当然に、ローマ帝国の都市部(その多くは、やはりヘレニズム文明を支えたギリシャ都市)を中心に回っていたことでしょう。ヘレニストである聖フィリポや聖トマスの様に、交易の中心都市に布教拠点を置いた動きとも平仄が合います。

しかし、これらはイエスの死後の話です。生前のイエスや聖アンデレたちは、布教を図りながら、どのようにネットワークを構築していったのでしょうか。

布教の旅の特徴

イエスの布教の旅をおさらいしてみましょう。
 
イエスの一行は、イエス及び弟子たちと、その家族(妻子など)です。イエスと12弟子、そしてその妻たちだけでも20人超。そこに子どもたちもいたとすると、概ね30人から40人規模で、生活拠点を移動させながら布教を続けたものと思われます。
 
布教の場所も見てみましょう。イエスの布教は、主にイスラエルの北部エリアで展開されていました。布教先における出迎え方も、各地それぞれに異なっているため、特に何か連携している訳ではないでしょう。
 
仮に、既に利用できるネットワークがあったとすると、それは洗礼のヨハネ教団の信者ネットワークだった可能性があります。各地に点在するヨハネ教団のネットワークを、イエス教団のネットワークとして取り込みを図ることは当然に考えられていたでしょう。
 
布教対象はどうでしょう。イエスの布教は、特に貧民層に受け入れられたとされます。社会の中で一定の地位を占める人たちにはすぐには受け入れられず、社会秩序に押しつぶされそうになりながら生活を続ける人たちに受け入れられたことは、注目すべきポイントです。
 
イエスの布教の旅の費用は、同行する女性たちの資金だけでは不足する可能性もあります。各地で寄付を募りながら、移動したと考えるのが妥当でしょう。現金を身にまといながら移動する以上、資金管理は教団幹部の目で見て信頼のおける人に託したことでしょう。(教団の資金調達については、追って改めて検討しましょう。) 

人々の受け入れ方

各地でのイエスたちの受け入れられ方はどうでしょう? 安息日に会堂で教えを垂れることもありました。一人一人と仲良くなり、村に入れてもらうこともありました。村の中に入れず、病人を村の外に連れ出してもらうこともありました。野次馬に追いかけられることもありました。もちろん、きちんと歓迎してもらうこともありました。千差万別だったことが分かります。
 
インターネットもテレビもなく、新聞などもなかった時代です。他の村の状況を把握する手段は限られていたことでしょう。各地での出迎え方(イエス教団の受け入れられ方)が大きく異なるのは無理はありません。
 
ここから分かることは何でしょう。イエス教団は、知り合いのつてをたどって布教することもありますが、多くの場合、多数派ユダヤ教徒の手薄なエリアを回って、そこで初めて出会う人々を魅了し、信者としたということです。

なぜそれが可能だったのでしょうか。

印象に残った理由

初対面でも魅了されるには、いくつか要素があるように思われます。

まず第1に、非日常性。

日常の平凡な経験とは質的に異なる経験は、なかなか忘れがたいものです。各地で起こした奇跡は、非日常そのものです。ただ、奇跡がなかったとしても、他所から30~40人規模でやってきて、また去っていったイエス教団は、村々の平凡な日常とはことなる非日常的な存在であったことは論を待ちません。 

第2に、話の巧みさ、面白さ。

イエスの話は、たとえ話が多く、面白く、飽きさせません。それでいながら、現実を鋭く突きさす警句を含み、心をざわつかせずにはいません。浅くも深くも聞ける話なので、単なる宗教講話を超えて、一種のエンターテイメントとして受け止められた向きもあったでしょう。 

第3に、主張の過激さ(突拍子のなさ)。

イエスは、神はすべての人類を救うと主張しました。しかし、多数派ユダヤ教徒は、そのようには考えていません。多数派ユダヤ教徒にとって、モーセの律法はすべて守るべきものであり、神に対して不誠実な場合は、救われないという恐怖があり、それが社会システムの基礎にあります。しかし、そういいながらも日常的な律法からの逸脱については見て見ぬふりをしています。極論すれば、多数派システムに入らない人々を差別することで精神的な安定を享受していたわけです。

しかしイエスは、モーセの律法ではなくアブラハムの律法に立ち返ることでモーセの律法を批判し、すべての人類の救済を主張しました。このことは、人々の日常的な道徳観への挑戦になりますが、自己の救済に自信がない人にとっては、この言葉だけで救済が与えられるものでもあります。強烈な印象を残したことは間違いないでしょう。

第4に、真摯さ。

イエスだけではなく、そばに仕える聖アンデレたちからも、全人類が救済されると真剣に考えていることが、実際に教団の様子をみることで理解・納得できたことでしょう。 

それぞれの地域におけるコミュニティに、イエスたちの教えが、それぞれに浸透しているのは、正に、こういった体験を通じ、人々がイエスに魅了され、人格的陶冶を経たからと言えるでしょう。

力なき者たちの力

イエスの布教は、各地に点在する分散型コミュニティそれぞれに、イエスの教えを一本、串のように通そうとする動きのように見受けられます。しかし、この分散型コミュニティを中央集権的に一元管理しようとはしていません。このような状況で、本当に教えは広がっていくのでしょうか?

参考になる例を挙げたいと思います。チェコのヴァーツラフ・ハヴェルのとった手法です。ハヴェルは、チェコ・スロヴァキアを共産主義(ハヴェルの言葉でいう「ポスト全体主義」)の軛から解き放ち、民主化を導いた政治家として知られています。その主著『力なき者たちの力』には、イエスや聖アンデレが面していた当時の社会にも同じようなことが起きていたのではないかと思わせられる状況が描かれており、いくつかの重要なポイントが指摘されています。

(1) 「真実でない」教義が流布している意味

ハヴェルが直面した「イデオロギー」・「ポスト全体主義」(共産主義)は、当時としては、イエスや聖アンデレにとって真の神の教えとはいいがたい「多数派ユダヤ教」・「モーセの律法」として読み替えられるでしょう。

イデオロギーは、本質的にきわめて柔軟であるが、複合的で閉鎖的な特徴から世俗宗教のような性格を帯びている。・・・このイデオロギーは、人びとに催眠をかけるような特殊な魅力を持っている。さまよえる人びとに対して、たやすく入手できる「故郷」を差し出す。あとはそれを受け入れるだけでいい。 

そうすれば、ありとあらゆるものが明快になり、生は意味を帯び、その地平線から、謎、疑問、不安、孤独が消えてゆく、もちろん、この安価な「故郷」に対しては大きな犠牲を払わなければならない。自身の理性、良心、責任を放棄しなければならない。なぜなら、イデオロギーの代用には、理性や良心を支配者の手に委ねることが不可欠であり、つまり、中央の権力と中央の真実を同一視するという原則が生じるからである。
                         (ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』2:3) 

この結果、不都合が起きます。

ポスト全体主義体制が目指すものと生が目指すものとのあいだには、大きな亀裂がある。
 
生はその本質において、複数性、多様性、独立した自己形成や自己編成、つまり自身の自由の実現に向かうのに対し、逆にポスト全体主義は、統一、単一性、規律へと向かう。生がたえず新しい「ほんとうにありそうにない」仕組みを造ろうとするのに対し、ポスト全体主義は「ほんとうにありそうな状態」を生に強いる。・・・
 
すべてを信じる必要はない。だが、まるで信じているかのように振る舞わなければならない、いや、せめて黙って許容したり、そうやって操っている人たちとうまく付き合わなければならない。
 
だが、それゆえ、嘘の中で生きる羽目になる。
 
嘘を受け入れる必要はない。嘘の生を、嘘の生を受け入れるだけで充分なのだ。それによって体制を承認し、体制を満たし、体制の任務を果たし、体制となる。
                       (ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』第4節)

イエスや聖アンデレたちの場合に引き直してみましょう。当時、モーセの律法が形骸化したのは、日常の細かい点まで規制をし、そのために「信者」ですら遵守できなくなっていたからです。モーセの律法は、モーセが生きた非定住型生活スタイルには適合していたでしょうが、その後、定住が進んだ当時の社会体制の中においては、結果的にはイデオロギー化し、当時の人々に対し「嘘の生」を強要していたように、イエスたちには見えていたのではないかと思います。イエスが「生きる者の神」の意義を説き教条主義に背を向けたこと、アブラハムの律法という「真実の生」の教えに勝機を見出していたことは、このような背景があってこそではないでしょうか。 

(2) 考えられる突破口

とすると、「嘘の生」を打破するための突破口も、「真実の生」による真摯な態度に求められることになるでしょう。 

「嘘の生」は、体制を構成する支えとして機能するのは、それがすべてに関わるという全体がある場合に限られる。その原則は、ありとあらゆるものを包囲し、ありとあらゆるものに浸透しなければならない。「真実の生」と共存することはありえない。「嘘の生」から外に出ることは、それ自体、「嘘の生」という原則を否定し、その全体性を脅かすことになる。
 
体制の基本的な支柱が「嘘の生」であるとしたら、「真実の生」がその根本的な脅威となるのは当然である。それゆえ、「真実の生」は、何にも増して厳しく抑圧されることになる。
(ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』第7節)

生が目指すものを擁護し、人間を擁護することははるかに現実的であるばかりかーーーこれは今すぐ始めることができ、はるかに多くの人びとの賛同を得られ(なぜなら、あらゆる人の日常に関係するからである)―――、同時に(まさにそのために)他に比較できないほど着実な道程となりうる。というのも、ものごとの本質を目指しているからである。
(ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』第16節)

(3) 人びとの連帯の在り方

こうして、人びとが「真実の生」に目覚めることで、信頼、寛容さ、責任、連帯、愛といった諸価値を回復し、「人間的な内実」を起点とする構造の制度化がもたらされるでしょう。

「外へ」出たい野心に共有されたものではなく、あるコミュニティは意義深いという共通の感情が共有された構造である。構造は、開かれ、ダイナミックで、小さいものとなることができ、そうあるべきだろう。
 
形式化した組織の静的なまとまりよりも、具体的な目的のために熱狂して、その場で生じ、その達成とともに消えていく組織がいいだろう。指導者たちの権利は、その人格から生じるべきであって、その人物は周囲の人びとによって確認されるべきであって、単なる特権的な階級によるべきではないだろう。人間としての大きな信頼を有し、それにもとづいて大きな権力を有すべきだろう。それが、信頼よりも相互不信に、責任よりも集団的な無責任にしばしばもとづく、古典的かつ伝統的な民主主義組織から脱する唯一の道だろう。
(ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』第21節)

もう一度、イエスと聖アンデレに引き付けて考えてみましょう。神とのつながりを感じることができた人を、イエスと同様、一般名詞として「人の子」と呼ぶことにします。そうすると、人びとの中に「人の子」の自覚をもつ人々を増やし、その「人の子」たちが連携し合うことで新たな展望が開け、この世は、神の来臨を安心して迎え入れることができるようになる、ということになるでしょう。
 
注意すべきは、イエスたちは「神の来臨」(終末)が近いと考えていたため、未来永劫続く組織を志向してはいなかっただろう、ということです。神の来臨前に、真実の教えを説くことで、「人の子」を増やすことこそ、教団の目標だったという点です。
 
言ってみれば、「人の子」は、薪や炭のようなものかもしれません。木の枝(人間)は、薪や炭(人の子)となることで火(真実の生)に反応できるようになり、自らがその火を支える一部であることを自覚するとともに、その火が燃え続ける限り、たとえ物質としての薪や炭が灰になったとしても、真実の生に生き続けることができる、ということでしょう。
 
このことから、人の子の自覚を持った者同士が、互いに、信頼、寛容さ、責任、連帯、愛といった諸価値に基づいて人生をまっとうすれば、よりよい連携の在り方、組織の在り方を模索し、世の中を改善できるとイエスたちは信じていたのではないかと推察されます。

イエス生前のネットワークの特徴

 以上をまとめると、つぎのようになるのではないでしょうか。

イエス教団は、「本当の神の教え」(真のユダヤ教)をもって、真実の生を生きることを決意し、その教えを真摯に広めることを目指した。

しかし、一か所に信者を集めたために斬首された洗礼のヨハネの事例を踏まえ、公権力に妨害されることはあらかじめ避けていた。そのため、神殿に代わるような拠点を構築することはせず、みずから各地を布教して回るという方法を採用するに至った。

布教開始から当面の間は、主にガリラヤ湖を中心とする北部地域での布教に努めた。

各地を回るにあたっては、おおまかには洗礼のヨハネ教団の弟子たちのいそうな町を目指して動いていたが、基本的には出たとこ勝負であり、真摯に向き合った。

このようにして、イエスたちは、「真の生」に気づいた人たちの分散型ネットワークを構築し、来るべき日(神の来臨=終末)に備えようとしたのではないかと見受けられる。

イエスの死によるネットワークの変化

 最後に、イエスの死によってネットワークがどのように変化したのかも検証しておきましょう。

 (1) 最初の「キリスト者」

イエスの信奉者たちが初めて「キリスト者」を名乗った場所は、後に5本山の一つとなるアンティオキア(使徒行伝11:26)です。この土地は、初めての異邦人伝道の教会(使徒行伝11:19~30)でもあり、聖アンデレの部下であった「アンティオキアの改宗者二コラオ」のゆかりの地(使徒行伝6:5)でもあります。異邦人とディアスポラの混合教会で、ユダヤ的伝統に固執していません。

 イエスの死後、イエスを信奉する人たちが、従来のユダヤ人とは異なる形で自覚的に集団を結成したのがアンティオキアだったことが分かります。アンティオキアは、エルサレム一派とは対立(使徒行伝15:1~35)していますので、義人ヤコブやペテロ(ヘブライオイ)とは異なる意図をもった集団で、ヘレニスタイの拠点の1つであったと分かります。

 ヘレニスタイに近いというスタンスからみても、アンティオキアの改宗者二コラオたちによる創設と考えてもいいかも知れません。(後で改めて検討します。)

 (2) イエスの「死」の効果

有名人の死、それも劇的な死は、噂として広がりやすいばかりでなく、哀れみや同情、時に後悔を呼び覚まします。しかも、その人物は、生前、自分たちのところにわざわざ訪れ、「真の生」について説いて、自分たちの魂の救済を約束してくれた人です。

 イエスが会った人たちは、イエスになにごともなければ、やがてイエスのことを忘れていたかも知れません。生前は諸事情から援助することがむつかしかった人もいたでしょう。しかし、短期間でイスラエルの主要部分を廻ったイエスが、その記憶も覚めないうちに劇的に「神殿の関係者に十字架にかけられて死に、その後、復活した」訳です。生前のイエスを知っている人々は、洗礼のヨハネ(エリヤの生まれ変わり)とも合わせて、「やはりあの時、イエス(エリシヤの生まれ変わり)のことを聞き、もっと親しく交流すればよかった」などと後悔したのではないでしょうか。その結果、「イエス贔屓」といった心情が生じ、その神性を印象づけられたことでしょう。

 要するに、イエスの死は、イエスの主張の「正しさ」を人々に信じ込ませるための、大きなきっかけになったのであろうと思われます。

 地道な布教の旅という土台があったおかげで、この2つの出来事によって、潜在的なイエス信奉者が一気に顕在化していったと言えるでしょう。

 

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