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年頃の娘を見守る目で欅坂の方角を眺めたとき、そこに見える光景

親子、わけても父娘の距離感のとり方、一般論としてむずかしいものじゃないですか。
自分の娘が欅坂46をデビュー早々から箱で推している。というのは比較的わかりやすいモノサシがそこにある、という感じで、その意味で父さんな、謝意を表明しておきたい、とずっと前から思ってたんだ。

この優れたコラムで述べられていることから大きくは離れない感想しか持ち合わせていないものの、強いて付け加えるとすれば。
と思ったことがあって、それは、娘と同世代の子どもたちが痛々しい感じでメディアに露出する姿を毎週(=録画『けやかけ』で)見るともなく見ていると、情が移ってしまってしょうがないんですよ。って話を3,000字強、しようと思います。

みんな平手はデビュー当時は笑っていた。っていうけど、それなら鈴本の変貌も語られて然るべきだし、最も不遇な2期生松平はどうなんだ、とか、そのふたりがドーム公演の円盤に映るたび、声にならない声が出てしまうんですよ。
この辺の感想はアウトプットしておかないと、いつまでも同じことが腹の中に溜まってしまうやつ。……と思ったので、This Is 欅坂46ってSpotifyプレイリストを流しながら出勤した今朝でした。

それでね、俺を含む外野のみなさんが欅坂を語るとき、どうしてそう「彼女たちは何も考えておらず、運営の大人たちに踊らされているだけの存在」ってなりがちなのか、という問題を考えたい。

仕事で「海外から日本に働きに来る人」と接する機会が多く、つまり「カタコトで話される日本語」の摂取量がとても多いので目に留まった記事なのですが、外国人労働者の代表例として、ベトナム国籍/技能実習ビザで来日している人たちへアンケートをおこなった、とあります。

自由記述欄の質問は、「あなたは今の生活や仕事に満足していますか。あなたはどのような支援が必要ですか」でした。
返ってきたアンケートは見慣れない声調符号のベトナム語が埋めていました。眺めても何が書いてあるか見当もつきません。

記事は続きます。いわく「きちんと翻訳してもらうとこのような内容でした」。

「日本より貧しい国から来たかもしれませんが、私たちなりに努力してきました。日本に来てたくさんの苦労に耐えながら将来のために仕事をしていることが、その証明です。
どうか私たちを平等に評価してください。
私たちを下に見ないでください。
日本人に対する印象をもう悪くさせないでください。
生き方は人それぞれなので、私が無理に他人を変えることはできないとは思いますが、一人ひとりがもう少し優しい気持ちを持って、お互いに思い合って対応すれば、生活はもっともっと充実するのではないでしょうか。
私たちの努力を認めてください。
私たちの日本に対する希望や愛情をつぶさないでください」

それでね、俺を含む外野のみなさんが欅坂を語るとき、どうしてそう「彼女たちは何も考えておらず、運営の大人たちに踊らされているだけの存在」ってなりがちなのか、という問題を考えたい。(約40行ぶり2回目)

日本語がカタコトだから、思っていることもカタコトなんだろ、って誤った思い込みと無縁ではいられないわれわれ。
年端もいかない、芸能界なんてヤクザなところに籍がある若者たちは、ロクに考えてもいないだろ、って思い込みがあるわれわれ。
これ、パラレルでは。
たとえば冒頭で引用したロマン優光コラム。大筋には同意するのですが、と繰り返しておきますが……

単に大人にやらされているのではなく、やらされている環境の中で、自分の意思で何かを自発的にやろうとするアイドルはその人らしさが見えて、自分は好きだ。周囲の環境や理不尽に対して自分の頭で考え、自分の意思で動くようなアイドルが好きなわけだが、それは活動していく中で偶発的に生まれてくるものだと思う。
それが欅坂46の場合は、そういった部分すら最初から織り込み済みで、ビジネス的に回収されるのが最初から決まっているようなやり方をしているように感じていた。

このパラグラフ〆に「黒い羊をわざわざ作ろうとするのは違うだろうと思った」ってあるんです。それ。ちょっとだけいい?

9枚目シングルが出ないせいで延々この曲のMVからの抜粋CMを見させられていた父が毎回何を思っていたかというと『けやかけ』#11 心理テスト回で自分に自信を持てないって泣いてた長沢菜々香でした。
そのココロは……という説明にちょうどいい文章があったので、あともう1回だけ、寄り道してから本筋に戻ります。

店には、自分で作った本を置いてほしいという人もやってくる。
その女性が持ってきたイラスト集も、ああ、あの作家の作風だなと一見してわかるものだったが、その作家には確かに存在する毒が、彼女の作品ではそこだけが抜け落ちてしまっているように思えた。
自主製作とはいえ、本屋の店頭に置かれることは、商業出版の本と同様に見られることでもある。あなたのことを知らない誰かが手に取ってみたとき、この本には何かを感じさせる強さが足りないと思う。彼女にはそう率直に伝えた。
わたしにはなにもないから……。
何が起こったかわからないという間が二秒ほど続いたあと、女性はそのように言ったと思う。
それはわたしに話したというよりは、勝手に口をついて出てきたことばのように聞こえたので、より胸にこたえた。

もうイイ年をしたおっさんなので、このコラム筆者のようにキビシめの指摘をする側に立つことも多いのですが、だからって「わたしにはなにもないから」って言ってしまう若者の気持ちを忘れてしまえるわけもない。だって自分が何者でもなかった時代の記憶は鮮明に残って消えていないから。
言わずもがなの追記をするなら、いまだって「何者でもない中高年」になっただけなんだけど、あの頃のような焦燥感は、幸いなことに薄れちまいました。それはね、年を重ねることによってもたらされる何個かのイイコトのうちのひとつだと思うんですけど。

泣いてるなーこ先生を『けやかけ』で見たときに頭をよぎったのは、彼女が自分の娘だったらタマランなあ。という詠嘆でした。
さいきんどう? って聞いても、んー大丈夫。って平坦な答えが返ってくるだけで、実際がんばってるだろうとは(親だから)重々知ってるつもりだけど、自分の子がテレビであんなふうに泣く姿を見て、胸が苦しくならない親はいない。……じゃない?
上で引いた、荻窪の本屋Titleに自作イラスト集を持ち込んできた女性の話を読んだときにも、似たような感情に襲われたし、それは欅坂46『黒い羊』に触れるときも同じです。

若者の自己肯定が低いレベルで留まってしまう社会を作っている責任は、俺たち世代が感じるべきものなのです。異論は認めない。

『黒い羊』は、同じ意見を持つ“白い羊”の群れの中に、そうではない自分が混ざっていることの孤独感が描かれた楽曲。
集団の中での仲間はずれな1人を“黒い羊”と表現しているが、長濱曰く、メンバーそれぞれが自分のことを“黒い羊”だと思っている部分があるのだそう。そういった、集団の中にいても疎外感を感じている人が世の中に大勢いることを踏まえ、「そういう人に寄り添える曲になれば」と長濱は話した。

黒い羊を平手だと思うのは受け手の自由だけど、演者たる本人たちは-あなたが名前も知らない子を含め-自分を白い羊側だと思ってノホホンとしてるわけではありません。
自分がいなくなればいい、って(特に若者に)普遍的な感情を表現した、その光景に心が動かされるなんて運営の思うツボじゃん……っていうひとがいっぱいいることは知ってますけど、それこそ「見栄やプライドのくさりにつながれたようなつまらない大人は置いて行け」ってデビュー曲で歌われた大人の言いそうなことじゃない?

彼女たちだっていろいろ考えてるんだよ。少なくとも俺やあんたにバカにされるほどバカじゃない。そう考えれば「運営」を過大視する必要もないし、だいたいな、運営運営いう大人こそ、おまえはもっとおまえらしく生きろ。ってことばがふさわしいんですよ。
卒業だろうと脱退だろうと、これから彼女たちが歩んでいく道がどんなものであろうと、支持したい。そう思います。

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