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息切れをした日のこと


社会人になってからここまで3ヶ月、特に無理もせず、特に怠けもせず、普通にやってきた。自分ができることを、自分らしく。ちょっとだけ勇気を出した日もあったし、ちょっとだけサボった日もあった。そうやって、ここまでやってきた。学生時代に嫌いだった、「成長」という言葉にも、嫌悪感を抱かなくなった。逆に、成長実感が無いことに焦ることもあった。環境に適応し、それなりに頑張ってこれた。

そして今、ここにきて、少し息切れをしてしまった。心の余裕が無い。思い返せばこの3ヶ月、趣味の読書や映画鑑賞、書道、物書き、どれもちゃんとはできていなかった。土日は強い疲労感で趣味に手を出す余裕もリフレッシュの時間を取る発想もなかった。好きなことをするにも体力が必要なのだと知った。

今にして思えば、心が疲れたら休むことができるという自由さは大学生の特権であった。自分だけの時間を自分のために使うことができる。元気ではなくとも、豊かであった。のびのびとしていた。頭の中は深く広く、本を読んで考えることが楽しかった。

今も毎日充実していて楽しいのだが、なぜか疲れてしまって、前に進めなくなった。その上、思考が狭く浅くなってしまったように思う。頭の中にある風呂敷を広げられなくなった。考える時間と余裕が無い。言い訳かもしれない。休養が欲しい。それは、何かをするための時間ではなく、何もしないための時間である。鴨川の飛び石でくつろぐというような、ただそこにあるもののためだけの、目的に回収されない時間である。目的を持たない「余暇」である。

兎にも角にも、ずっと目的のもとで頑張り続けることは、自分にとって、水の中に潜ったままでいることと同義なのである。息が切れたら、水面から顔を出して深呼吸をしなければならない。目的や志という強い水圧から解放される時間を取らなければならない。


ゆっくりと、模索していく。

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