街は人いきれの雨で(7) ~雨空の天の川~

 7月になっても相変わらず雨が降り続いている。というか、6月よりも明らかに雨の日の割合が多い。今日も外は大雨だ。スマホからは大雨に注意の通知が何度も届いている。ずっと家で練習しているので関係ないと言えばないのだが、毎日外に出た時に曇天だと、気が滅入ってくる。

 綺麗な、綺麗すぎる俺のフェンダーのベース。それをハードケースから取り出し、練習用のアンプに繋ぐ。

 現代のポップス音楽を遡っていくと、ベースの歴史というのは意外と浅い。一九二〇年代にジャズによってコントラバスを弦で弾く奏法がとられるようになり、そこからベースという楽器で多様な表現がとられるようになった。現代のベースギターの原型である「プレシジョンベース」が生まれるのはもっと先で一九五〇年代のことだ。
 ではその前、例えばマーチングバンド音楽ではどうだったかというと、ベースラインは打楽器が担っていた。大きさの違うバスドラムを抱えた大太鼓隊が何人も居て、音楽のベースラインを表現していた。バンド形式のときにベースとドラムが「リズム隊」と呼ばれるのはこれが理由だ。
 この歴史的経緯からも分かるように、ベースを弾くときに一番大事なのは、目を惹くような奏法やメロディではなく、安定したリズムなのである。

 ・・・というのは当然知っていた。何なら、その後のラグタイムだったりロックンロールだったり、それ以降の音楽史も詳しく語る事が出来る。いろんな奏法や作曲テクニックについても、その辺の頭が悪そうなバンドマンよりは詳しく知ってるつもりだ。

 だが、その辺のバンドマンが当たり前にできる、ピックを弦に当てて音を出すということすらまともに出来ないのが、今の俺の現状だ。世間的に見ると負けているのは・・・俺な気がする。
 「情報は発信する人の元に集まるものだ」と学生の頃の先輩が言っていた。今の自分は周りの情報を吸い込んで何も出てこない、さながら情報のブラックホールだ。ブラックホールに明るい未来が待っている訳がない。あれ、そういえばブラックホールってどうやって出来るんだっけ?学校で先生が授業のついでに話していた気がするのだが、思い出せない。寝る前に調べてみよう。

 ・・・ベースをアンプに繋いで早くも十分が経とうとしていた。こうやって無駄なことばかり考えているからいつまで経っても話が前に進んでいかないのである。
 メトロノームに合わせて八分音符を同じ音量で弾く。柑菜から言われた練習メニューだ。やってみると意外と難しい。・・・いままでやったことなかったのかよという突っ込みはなしにしてくれ。
 五分ほど練習したところで、昔に練習したときのことを思い出した。あのときは、亀田誠治さんのパートを練習していた。同じ音ばかりで簡単に見えたからだ。しかし、現実は甘くなかった。タブ譜通りに弾いているのに、どうしてもそれらしく聞こえないのである。何度もCDを聴き直すと分かった。亀田さんは必ずしも譜面通りに弾いてはいないのだ。少しだけテンポをずらしていたり、音量が均一ではなかったり。そういうものを「グルーヴ」と呼ぶことを知った。
 そうだ。譜面通りに弾けるようになることよりも、リズムに乗る方法について実践的に学んだ方が近道なのではないか。俺は今、知の高速道路を見つけてしまったかもしれない。

 そう思っていると、携帯が鳴った。見ると、柑菜からボイスメッセージが来ていた。

「どうせリズム通りに弾けないのを"グルーヴ"とか"シンコペーション"とか言って誤魔化そうとしたんでしょう?あれは基礎が出来る人がわざとずらすテクニックだからね。ピカソは九歳の時点でほぼ完璧なデッサンが出来たから、独特な構図で絵を描きはじめたの。まずは開放弦で八分音符を一五小節、メトロノーム通りに弾けるようになること。あと、指で弾いてるけど、どうせピックを弦に上手く当てられないからやめたんでしょ?ポップスやりたいならピックで弾くことから逃げるな!じゃあ!」

 知の高速道路は計画時点で中止となった。ついに文字を打つ事すら面倒になったらしい。しかし内容が的確なのが腹が立つ。何故、コイツは俺の考えが読めるのか。

 その後も練習の日々が続いた。手がそこまで大きくないので、指を開く訓練からしないければいけない。リズム感もないので、まずは一日目の昼に弦を押さえている指が腫れてきた。夕方にはピックを持っている方の腕に力が入らなくなってきた。ずっと練習が出来る訳ではない。やるべきことは山ほどあるのに、時間もたっぷりあると思っていたのに、これまで無駄にした数年分の時間を今、引き落としできないかと思った。
 時間はあっという間に流れていった。


 七夕の日がやってきた。今日くらいは晴れてくれるかと思ったが、相変わらずの雨だ。予報だと夕方からは30ミリを超える雨が降るらしい。ちょっとした豪雨である。
 そういえば、ここ十年ほど天の川を見た記憶がない。ずっと雨なのではないだろうか。
 もしかすると、天帝はそれを分かっていて、この日に織姫と彦星が会うことを許したのかもしれない。この日に天の川が掛かることは滅多にないと知りながら、七夕だけは会ってもいいと、対外的な譲歩をした。だとすると、天帝は相当に性格が悪い。”帝”と名に付くくらいだからきっと偉い身分なのだろう。何でも思い通りになってきたに違いない。だから、抑圧から来る反動の強さを天帝は知らなかったのかもしれない。見えている障壁があれば、それを超えようと思う事は容易いのに。約束を反故にするために、彦星が謀反を起こされることだってありえるだろうに。
 まだ自分は心の奥底で世界に悪役が出てくることを望んでいる。そうでないと、この人生で最大の敵は自分の怠惰であると気づいてしまうから。

 柑菜との待ち合わせ場所は駅の南口だった。いよいよ雨足が強くなってきたため、駅舎の中で待つ事にした。改札横にある大きな笹の葉が目に入る。色とりどりの短冊に願い事が書かれている。
 何が書かれているのか、目に付いた一枚を読んでみた。
「傘がほしいです」
 そんなこと書いている暇があるなら、駅前のセブンイレブンで傘を買え。せめて天に願うんだから「晴れますように」ぐらいにしておけ。

 柑菜が改札を出てきた。
「お疲れ様。いやー。ひどい雨じゃない?」
「せっかくの七夕なのにな。」
 通路の端でごそごそと荷物を整理しながら柑菜はしゃべり続ける。
「今日、家に傘を忘れちゃったんだよね。だから、短冊に傘がほしいって書いたのにさ、まだ傘が手に入ってないの!やっぱり行動しなくちゃ夢は叶わないってことかな?」
「あの願い事、お前だったのかよ。」
 つい”お前”と言ってしまった、よくない癖だ。柑菜の方を見てみる。何やら手がこちらに伸びていた。
「あのさ、傘買ってきてくれない?一番安いビニールの奴でいいからさ。」
 そう言いながら、千円札を渡してくる。何も気にしていない様子だった。そもそも気にしないタイプなのか、文脈次第では許してくれるのか。とにかく、昨今踏んではいけないとされる分かりやすい地雷を踏んでしまったにも関わらず、優しい。
「分かった。」
 お金を受け取りコンビニへ行く。思い返すと、ここ体よくパシリに使われているのだが、そこには気づかない。俺も、優しい。

「七夕の短冊って色に意味があるの知ってる?」
 練習場所に向かいながら、柑菜は相変わらず話しかけてくる。
「色に意味?全然知らない。」
「あれって中国の陰陽が元になってるんだって。例えば、緑は自分の成長につながるようなこと。楽器が演奏できるようになりますようにとかそういうの。白は規律や義務に関する願い事。遅刻をしませんとか。黄色は人間関係。あの子と恋仲になれますようにとかかな。ほかにもあるらしいけど、忘れちゃった。」
「そんなこと、よく知ってるな。そういえば、傘がほしいって願い事は何色に書いたんだ?」
「それよ、それ。傘がほしいっていう願い事ってどれにも当てはまらなくない?考えた人も分かってないよね。」
 中国の陰陽もいい迷惑である。その後も、駅近くの格安スーパーは精肉類だけは安くないとか、メキシコのチワワ州で大規模テロ発生というニュースを見てから散歩しているチワワを真っ直ぐ見られないなど、色々な話をしながら歩いた。情報は発信する人の元に集まる。柑菜は俺にいろんなものを与えてくれている。俺は柑菜になにか与えられているのだろうか?

 気づいたら、俺は柑菜にこう話しかけていた。
「七夕で思い出したけど、ブラックホールってどうやって出来るか知ってる?」
「さあ?私、学力は保卒レベルだから。」
「星がエネルギーを出し尽くすと最後に大爆発を起こして、周りにあるものを全部飲み込むブラックホールになるんだって。周りの星に光を与え続けた最後がそれって、なんか悲しいよな。」
「正義のヒーロだったのに、最後には悪役になっちゃう感じが?」
「それもあるし、いろんな物を吸収してるのに、それを誰にも与えられないってことも。」
「うーん、ブラックホールになる前の星だってさ、光を作るためにきっと色々なことしてんだと思うよ。最後くらい、周りに何かを与えるって役目をなくしてあげてもいいんじゃないかな?」
 なんだか、これから楽器の練習をするとは思えない二人の会話だった。