街は人いきれの雨で(5) ~練習スタジオ~

 俺は宮沢一26歳!有名なミュージシャンになりたいと神社でお参りをしていたら、ひょんなことから知り合った女、秋山柑菜と一緒に音楽活動をすることに。やれやれ、まだ俺はやるなんて言ってないんだけど。慎重派な俺とグイグイ行く柑菜のコンビは最初からいきなり衝突!?これからどうなっちゃうの~。
 …といった少女漫画ストーリーになることはなく、出会ってから三日間、特に何が起こるわけでもなく七月に入った。いや、正確には特に何も起こすことがなく七月に入ってしまった。

 時計を見る。そろそろ行かなければいけない。結局準備らしいことは何もできないまま三日が経ってしまった。憂鬱だ。いや、何も好きで準備を怠っていた訳ではない。ずっとやらなければとは思っていたのだ。
 なぜ人は十五分で終わる部屋の掃除を三日も四日も先延ばしにするのだろう。そのあいだずっと「掃除をしなければ」という考えが頭の中に居座り続けるのに。以前、気になって学校で隣の席の奴に聞いてみたことがあった。
「え、やろうと思ったらすぐにやるけど。」と言われた。
 これだから優等生は嫌いだ。きっとアイツのような人間が順当にエリート街道を進み、将来は国の重要な政策を決める立場に就き、不真面目な人間がいることを想定していないような法律を作るのだろう。延滞税などまさにその典型だ。あいつらは支払えない人間の存在を知識でしか分かっていないのである。大体・・・。

 と、ピピピピとアラームが鳴り、邪悪な思考は中断された。予定にはこうある「音合わせ 秋山柑菜」。
 とうとうこの日がやってきてしまった。子供の時から取り返しの付かなくなるまで何もやらなかった。夏休みの宿題も、旅行に向けた貯金も、不仲になりつつある友人との向き合いも。今回もまた繰り返してしまった。どうしようもなくなってはじめて現実と向き合うのだ。

 たいした準備もないため、どんなにゆっくり支度をしても十分で終わってしまう。いよいよ観念して玄関のドアを開けると、雨が降っていた。七月の雨は温く優しい。多くの人は生暖かく不快な雨だと言うが、俺はそうは思わない。まだ大分早いが、家に居るよりもこの空気の中に身を置きたかった。真っ黒な傘を持って家を出る。

 午後一時に柑菜と八幡宮の大階段前で待ち合わせをした。柑菜と待ち合わせた時間までは、まだ少しあったので、弁天様にお参りをすることにした。ベースギターを背負ったまま二百段の階段を上る。慣れても重いものは重い。末社の前にたどり着くと、先客がいた。

「あれ⁉待ち合わせ場所って階段下じゃなかったっけ?」
 さすがの柑菜も驚いた顔でこちらを見ていた。大きなビニール傘を持ってるのに、ギターケースのくくりつけたカバンがびしょ濡れになっている。いい年して傘を差すの下手か。
「そうだよ。まだ時間があるから、お参りをしておこうと思っただけ。」
 正直、まだ会いたくなかった。出来ることならすれ違ってしまえとするら思っていた。弁天様は意地悪だ。
「へぇ、奇遇だね。私も。」
「あれから本当に毎日来てるの?」
「当然。ここ数日はやっと検索しなくてもお参りの作法、できるようになったからね。」
 と言っても、まだ一週間も経っていないが。

 そのまま柑菜と二人で弁天様へお参りをした。順番におもちゃのような鈴を鳴らす。本来の作法ならばこの後でお賽銭を入れる。・・・のだが、妙な間が二人を支配した。
 柑菜の法を見ると明らかにこちらの出方を伺っている。試しに拍手をしてみると、柑菜も続けて拍手と礼をした。柑菜、毎日来るようになってからお賽銭を払ってないな。
 お互いに賽銭のことには触れず、手を合わせる。俺は弁天様が奇跡を起こしてくれることを祈った。目を開けて横を見ると、柑菜はまだ何か願い事をしていた。沢山あるのか、よほど具体的なことをお願いしているのか。

「どうせ待つかな、と思ってたんだけど案外早く来るタイプなんだ。」
 階段を降りながら柑菜が言う。何を隠そう、俺は家を早く出すぎて十五分も前に待ち合わせ場所に着いたのである。それなのに柑菜は既に階段のてっぺんにいた。・・・一体、何分前行動してるんだ?
「本当は時間ちょうどに着こうと思ったんだけど、早く着きすぎただけ。そっちこそ、早く来すぎじゃない?」
「十分前には待ち合わせ場所に居るようになったね。会社員じゃないんだから、遅刻して信用失ったら終わり。こんな生活してると、自然とそうなるよ。周りができない人ばっかりだと、尚更。」
 確かに、ダメ人間最後の希望であるエンターテインメント分野の中でも、ミュージシャンは殊更ダメなやつが多いイメージがある。敬語ができない、連絡を返さない、時間を守らない。人間性を見られるフロントマンとしての面と、他に流されないアーティスティックな面どちらも求めること自体に無理があるのかもしれない。そんな歪な人間に囲まれた中でも腐らずに真面目にやってきた柑菜に、果たして音楽の女神は微笑んでいるのだろうか。
 雲の隙間から一瞬だけ見えた見えた太陽に向けて、柑菜の成功を祈り小さく手を合わせた。八百万の神を祀る神社の中らしく、力を持っていそうなものにはなんでも手を合わせておくべきなのだ。
「あれ、何やってるの?早く行こう。」
 柑菜に急かされて、練習スタジオに向かった。
 せめてもの抵抗で、いつもよりもゆっくり歩いた。

 スタジオはすぐ近くにあった。俺がたまに寄るスターバックスのフラッグシップ店の隣、すっかり色あせた白い建物の地下が、柑菜プレゼンツの格安で使える練習スタジオだった。
 そこで・・・柑菜がオーナーと揉めていた。
「二人だって”過半数が女の子”って条件は満たしてるでしょう?なんで通常料金取られないといけないんですか。」
「ウチは一人頭いくらって料金体系でやってるの、しかもこの辺最安値に近い金額でさ。そこを二人でね、しかも三割引なんか使われたらね、ほとんど儲けなんかないの。」
 ものわかりの悪い子供を諭すようにオーナーが言う。
 ここが格安で使えるのには理由があった。ガールズバンドだと四割引、女の子が過半数のバンドであれば三割引で使えるのだ。・・・理由は知らない。とにかく、柑菜はそれ目当てでこのスタジオを予約したのに、店主が二人であれば通常料金を払うように言ってきたのである。
「何ですかそれ?規約に書いてないですよね。大体、女の子二人組だったら何も言わずに四割引で使わせるんですよね?丑三つ時フランケンの子から聞きましたよ。信じられない金額でリハーサルが出来たって。」
 丑三つ時フランケンとは、最近いろんな所のイベントでメインを張るようになってきた女の子二人組の"バンド"である。ユニットと呼ぶと怒って帰ってしまうので注意が必要だ。元々は別々のバンドだったのをくっつけたため、名前も珍妙なものになってしまったらしい。俺だってちゃんと最新の音楽シーンも追っかけているのである。
「それとこれとは今関係ないだろう。」
「関係ないってどういうことですか?あなたが人数と料金の話をしているから、こちらもその話をお返ししただけですが。」
 まだまだ続きそうだ。俺はその言い合いを半ば他人事で眺めていた。どうしてこの二人は、こんなに必死に争っているのだろうか。さっさと払うなり諦めるなりして別のことをやったほうが建設的だ。エネルギーの無駄ではないか。そう思ったが、かくいう俺はそうやって貯めたエネルギーを何に使う訳でもなく腐らせている。それこそエネルギーの無駄ではないか。

 ついに店主の方が折れ、結割引料金でスタジオを使えることになった。本心を言うと、もう少し言い争いが続けばと思っていた。地下は思いのほか広く、三つのスタジオブースがあった。その中で一番小さい八畳程度の部屋に入る。
「次からはダミーでいいから女の子連れてきた方がいいかもね。」
「大丈夫か?これだけ揉めて、次また借してくれるとは思えないけど。」 
「大丈夫だよ、あのオーナーは人の顔と名前を全っ然覚えないから。何なら私すでに一回出禁になってるし。」
 さっき真面目だと思ったことは取り消した方がいいかもしれない。

 喋りながら柑菜はテキパキと準備を進めていく。オーナーも各種レンタル機材を置くの倉庫から持ってきてくれた。露骨にがんつけながら部屋を出て行く。本当に顔を覚えられていないのだろうか。
「さて、何の曲やろうか?」
 チューナーも使わずに音程を合わせながら柑菜が言う。絶対音感を持っていると言うことは、小さい頃から音楽に囲まれた環境に居たのだろう。スタートの違いを思い知らされる。
「私、最近の曲だったら何でも即興で合わせられるよ?別に最近の曲じゃなくてもバンドでよくカバーされる曲だったら大体は。」
 と言いながら得意げな顔をしてこちらを見る。柑菜がいきなりスタジオを予約した上に、不自然なほど事前打ち合わせをしなかった理由が分かった。この特技を披露したかったのだ。そんなことをしなくても、柑菜のすごさはもう十分に分かっているのに。
 一方俺は、ベースギターをケースから取り出して地面に置き、真っ直ぐに柑菜を見据えていた。
「あれ、ケーブルそこにあるよ?早くやろうよ。」
 さて、遂にこの時が来てしまった。これ以上逃げおおせることは出来ないだろう。
「あの、一つ謝らないといけないことがあるんだ。」
 真実を語るときが来た。
「俺、・・・ないんだ。」
「ごめん、聞こえなかった。なんて?」
「弾けないんだ。楽器を。全く。」
 言ってしまった。
 そうだ、このベースギターは飾りだ。全然全くこれっぽちも努力せず、神社でお参りさえしてれば有名になれるんじゃないかと思っている人間のくず。それが俺、宮沢一だ。
 ミュージシャンとして有名になりたいという気持ちも、ベースギターと同じように単なる自分の装飾品のような気がしてきた。よそ行きの夢。玄関を開けたら外してしまうもの。少なくとも、柑菜のようなずっと努力をしてきた人間からすると、紛い物の感情だろう。
「え・・・どういうこと・・・?」
 狼狽える柑菜。彼女はどう出るだろうか。とても上昇志向の強い人間。一緒に上を目指せない人間になど利用価値を感じないに違いない。間違いなく切られる。
「なんで・・・今言うの?」
「ごめん。いつまで欺せるかって考えてたんだ。」
「そう・・・か。」
 嘘だ。本当は言い出す勇気がなかっただけ。相手を傷つけないための嘘ではなく、自分のプライドのための安い嘘。

 数十秒の沈黙があった。実際にはもっと長かったのかもしれないが、よく覚えていない。俺はその後に来るショックに備えて心を閉ざしていたから。
「でもさ。」
 柑菜がようやく口を開く。
「本番まであと五十日もある訳だよね。今からでもまだ間に合うんじゃない?」
「・・・。」
 思いもしなかった言葉に言葉が詰まった。ここで思い切り罵倒してくれたら、まだ心の均衡が取れただろう。どうして?どうしてそんなに心が広いんだ。
「練習するには相手が必要でしょ?手伝うよ。」
 楽器の技術も上で、知識や経験も上で、心まで綺麗だったら、俺って柑菜に何にも勝てないじゃないか。
「・・・。」

 居ても立ってもいられなくなった俺は、気がつくとスタジオを出ていた。
 優しさを信じられなかったなどという格好いい理由ではない。あの優しさを前にして、自分の矮小さを明るみに出されることにどうしても耐えられなかったのだ。
 建物の外に出ると雨が降っていた。というか、引くほど降っている。ここ数日の生やさしい雨とは違う、本降りだ。
 本当は、相手から受けた心の傷を癒やすためにこの大雨の中で立ち尽くしたかった。悪意に満ちた世界の中、清らかな心を持っている自分には生きる場所がないと思い込みたかった。別に自分がヒーローになって悪を討伐する必要なんかないのである。ただ、この世の中にわかりやすい悪があれば、自分は善であると信じ込むことが出来る。自分は愚鈍な怠け者なのでない、周りの人間が当たり前のように働く悪事には手を貸していないし、それにだまされることもない。そうやっていつものように自分を正当化したかった。
 しかし、目の前にある柔らかい善意がそれを許さなかった。いつだってそうだ。善は優しく近づいてきて、俺に見たくもない現実を突きつけてくる。善は慈しみに満ちた顔で語りかけ、俺が信じたくない世界の優しさを直視させる。また、後ろから善意の気配がした。

「なんでだよ。なんでそこまで親切なんだよ。別に弾き語りなんだから一人でも例大祭出れるんだろ?現に今だってそうしてるんだしさ。」
 柑菜は何も反論することなく、壁際に備えてあった椅子に座り俺を見上げる。その目からは、今まで柑菜からは感じたことのなかった、慈愛の念を受けた。
「ハジメって何歳だっけ?」
「もう今年で二六だ。もう四捨五入したら三十だよ。」
「知ってる。明莉さんから聞いたから。ちなみにね、私も今年で二六歳。」
「・・・えっ、同い年?」
 少し驚く。見た目や言動から完全に年下だと思っていた。そういえば、柑菜本人から年齢を聞いた記憶はなかった。
「そういうこと。何をするにも遅すぎる者同士、仲良く頑張りましょうよ。ね?」
 朗らかに笑いながら言う。なにがそういうことなのかは分からなかった。だが、”何をするにも遅すぎる者同士”という言い方はいまの俺の背中を強く押してくれた。もう、どうせマイナス点なんだ。もう、どうせ笑われるんだ。そう考えると、自分が勝手に作り上げていた肩の荷が下りた気がした。
「とりあえず戻らない?特別に私が、基礎の基礎から教えてあげましょう。とりあえずはスタジオでしかできない、機材の話からしようかな。」
 この時の柑菜の表情やそのときに自分が考えていたことを、あまりよく覚えていない。今までとは違って全身全霊で目の前にあることを受け止めていたから。斜に構えたり、俯瞰で見たりせず、真っ直ぐに宮沢一の人生を味わっていたから。

 柑菜からレクチャーを受けているうちに時間が来た。当人はまだ話し足りないと言っていたが、正直言うとエフェクターの話でいっぱいいっぱいになっていたのでちょうどよかった。
 流石に申し訳なかったので、料金は全額俺が出してから建物を出た。確かに、信じられないくらい安かった。

「とりあえず、明莉さんのお店に行こうか、この時間ならお客さんも居ないでしょ。まずはそこで作戦会議。」
 善は優しく近づいてきて、俺に見たくもない現実を突きつけてくる。善は慈しみに満ちた顔で語りかけ、俺が信じたくない世界の優しさを直視させる。そして、善はしっかりと横に立って、現実の自分を前に進ませてくれる。
 後になって考えると、柑菜がここまで優しくしてくれる理由がさっぱり分からない。むしろ不自然だ。こんなことを言われたら普段の俺なら訝しんだだろう。しかし、それを考えるにはあまりにも、体中の神経が別のことに意識を持って行かれていた。
「分かった。」
 一言だけ返して、柑菜の後に続くようにして街の方へ向かった。夕方からの予報は晴れ。しかし、本当のところは誰にも分からない。そんな中でずっと前に進み続けてきた人間の強さを、柑菜の痩せた背中に見た。