見出し画像

新たなる被爆者

78回目の8月6日です。
母は被爆者となって初めての原爆記念日です。

一昨年、黒い雨の認定範囲が広がった事で当時太田川上流に住んでいた母も被爆者手帳をもらうことになりました。
これまでに兄2人をガンで亡くしていました。
自身も2度の乳がんで3年前に全摘手術を行いました。
結構な確率でのガン発症率。
そういう家系だと思っていましたが、後になって「思い当たる節がある」という母の話を聞くこととなりました。
8月6日、現在の安芸太田市加計町、そこでも閃光を見たと言います。
そして、しばらくして雨が降り始めました。
その雨は黒くはなかったそうですが、学校にいた母の兄たちはびしょ濡れになって帰ってきたそうです。
母は当時2歳、庭で遊んでいたところ酷い雨が降り始めたので祖母が急いで家の中に連れて入ったそうです。

それから少しして母の頭髪が全て抜けてしまったそうです。
女の子なのにこんなんじゃ可愛そうだと終戦後、皮膚科に通ったそうなのです。
しばらくして髪の毛は生えてきたので、その時髪の毛が抜けたことは「不思議な出来事」として時折祖母が話してくれたのです。
実はそれが被曝の影響だったのです。
他にも同じように髪の毛が抜けた子がいたそうで、しかし一過性のこと、戦時のストレスだと思われていたのです。

そして被爆者援護法の制定後、黒い雨の範囲から外れた湯来町の方々が、自分達も雨を浴びたとして長い間訴えを起こしていました。
調査は長く続き、実際黒くなった雨だけでなく、放射能を含んだ雨が太田川流域の温井ダム付近まで降っていたという結果が認められました。
それは被爆76年後の事でした。

母は当時2歳。
何も分からぬまま、被爆し、78歳まで被爆者ではない人生を送ってきました。
父方家族はみな被爆者でしたが、あんな山奥深くに住んでいた母方家族も被爆者であり、その被害に知らず知らず蝕まれていたのです。

戦争被害は放射能だけではありません。
空襲による怪我で身体が不自由になった方々も。

そんな人をこれ以上増やしてはならない。
世界からどうしたらこの不安を無くすことができるでしょうか。

私たちができるのは、不穏な空気を見逃さないことなのだと思うのです。
勇気をもって、戦争はしてはならないと、言わなければならないと、強く強く、思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?