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知恩院

いつも目の前を通るのに、入ったことのない寺社がある。嵐山だったら二尊院とか。いつだって人力車に乗っては門前で写真を撮っているのに、なかには入ったことがない。
知恩院もそうだ。人力車に乗り、写真を撮り、門の説明なんかをうけたりした(あまり頭には入ってこないあたり、生来の勉強する気のなさが伺える)。

ちょうど一澤信三郎帆布にでかけたときのことだ。
人気店なのでみんなあれこれ迷いながら帆布のかばんを手に取っている。アジアの観光客はテレビ電話を駆使して、ああでもないこうでもないとしゃべって選んでいる。指示されているんだろう。なに話しているのかはさっぱり聞き取れない。怒鳴っているようにも感じられる。
けっきょくそんな勢いに気圧されて、なにも買わずに店を出た。

ラーメン食べたいなと思うけれど、麺をすするまでではない、そんなときがある。ちょうど天下一品があったので、スープだけ頼んだ。店前でちびちび飲みながら、あ、そういやすぐ横は知恩院だ、と思った。
まだまだ時間があったので、入ることにした。

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階段を息を切らしながら登ると、上で写真を撮っている人が。なるほど、階段の下の門を撮っているのである。僕はどっちかというとリール動画を撮りたいので階段を登り切った様子を撮りたいんだけどねえ、と思ったが諦めた。
さて、登り切り、広々とした場所に立つ。
そうそう、僕は浄土宗なのです、いちおう。浄土宗のお寺に家族の墓があるのです。でもあんまりよくわかってないわ、ときどき「浄土宗だっけ? 浄土真宗だったけ?」などと混乱する不届きものです。

御影堂に入り、おまいりをする。ちょうど家族連れがやってきて、子供たちがあれこれ言っている。なにやらアイスが食いたいらしい。いいよね、アイス、俺も食いたいよ。しばらくぼうっとしていた。こういうふうに広々としたなかにいると、自分がとてもちっぽけなものに思える。ちっぽけで、後に残るものなどなにも残せない。それを悔やむ自分を発見する。でもまあ別にいいじゃん、と思えてくる。とりあえずいまいろんなものを見ている自分。見ているだけで通り過ぎていく自分。自分の目に映ったものは人には同じように映るのか。心持ちが少しづつ変わっていく。寺社仏閣めぐりにはそういう効果がある。長続きはしない。だからまたどこかに寺社を参拝する。

まあ、願い事を叶えてくださいと貪欲にお願いしたいから、というのもあるのだが。
出てからしばらくして、戸がどんどん閉まっていく。四時には閉山する。アナウンスも始まる。
朱印はもらい損ねた。でもまたくるだろうし、次に取っておけばいい。

妙に大らかな気分になりながら、階段を降りた。

ちょうど門前で、前に乗ったことのある人力俥夫が、お客さんに説明をしたり写真を撮ったりしている。
なかなかしゅっとした、いい笑顔の若者だと思う。僕は人力俥夫が好きなのだ。あんな風になりたい。なんならなりたい。


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