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見えているものの向こう側や違いを知る―自分のフツーが相手のフツーとは限らない

多くの人によって語られる、
今さらなテーマ設定だけど。

「ちがいは、まちがいではない。」
と、以前つぶやいたことがあるのですが。

最近、社会が複雑になってきて
いや、それよりもずっと前から、
自分と違う人を批判したり、笑ったり、からかったりする
― こういう話題、見聞きすると沈む。。
(情報を見聞きしないように過ごせばいいのだろうけれど
入ってくるのを止められないことだってある)

あと、少し違うことだけど。

マナーやルール、あってもいいと思う。
お互いが快適にいられるために必要な場合もあるから。

ただ、それが初めての人や、
知らない場所に勇気をもって飛び込む人も
必ずいるわけで。

知ってるのが当然とか、こうあるべきとか
多数の意見だけをごり押しされるの、
いい気はしない。

思いやる気持ちというか
目の前に見えてないことを思う気持ち
知る・認める意識がもう少しあればと
自分への戒めもこめて、あらためて思っている。

相手があることなので
こちらのふるまいをどう感じるかは決められない点で
完ぺきにするのは難しいかもしれないけど。

それは、差別とか権利といった
大きすぎるテーマよりももっと、目の前にあるような気がしている。

唐突だけど、
例えば、
私のパートナーは、左利きだ。
(筆記具は右だったりするのでメインが左)

出会ったころから知ってたけど
一緒に暮らしていると、
それが話題になったり
実際、不便な点を教えられることがある。

駅の改札、ドアノブ。
刃物などの日常に使う道具。
あと、スポーツとか、楽器とか。
左利き用の製品は、以前よりは増えてきたようにも見えるが
世の中の多数派は右なのだ。

見た目そうでなくても、
実は体のどこかに不自由を感じているかもしれない。

自分が経てきた「フツー」の生活や経験が
相手は全く未経験で、話が通じないってこともある。

多数派がすべてではない こと
自分のスタンダードが相手のスタンダードではない こと

もしかしたら、
相手が不便を感じていたり、
相手の生活には出てこない話だったり
苦労していること、辛いことがあるかもしれない。

見えるすべてにその視点がなくてもいいんだけど。
もしかしたら、と向こう側を見てみるというか。

「当たり前よね」とか
「みんなそうよね」とか
不用意に発言したり、
違うことをからかったりしてきたこと
少し変化する気がする。

まったく別のことに見えるけど
実は、会話でも言えること。
自分の話を、今聞いてもらって当然と思いながら話してたとしても
相手にとって、今は聞ける状態ではないかもしれない。

逆に、
こちらが聞かせてほしいことだから聞きだそうとしても
話し手にとっては今は話せない場合もある。

見えていることの、ちょっと先を思うことができたら
お互いがもっと、いい関係になる気がする。

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