見出し画像

鬼滅の『刃』と「は」何か?


『当世大衆ノ娯楽』(作:KITAKAZE)

 筆者は、「鬼滅の刃」に、本当に多くの暗号が織り込まれている事を、拙著「鬼滅の暗号」に記載しました。実は、筆者は、この「鬼滅の刃」という作品の名称自体が「暗号」になっていると考えています。その中の、「鬼滅」の意味に関しては、拙著「鬼滅の暗号」に記載したのですが、「刃」に関しては、記載しませんでした。ここでは、その「刃」に関して、記載したいと思います。

 鬼滅の刃では、「刀(かたな)」が重要な役割を果たします。「鬼殺隊」の剣士達が、強力な鬼を倒す事が出来るのは、剣士達の持つ武器の「日輪刀」のお陰です。この「日輪刀」は、太陽の光を十分に浴びた特殊な鉱石から出来ており、この「刀」によって鬼の「首」を切らないと、鬼を倒す事はできません。

 では、なぜ作者の方(吾峠呼世晴先生)は、「鬼滅の刀」とか、「鬼滅の剣」などの作品名にしなかったのでしょうか?

 筆者は、これは、「刃(やいば)」という「文字」をどうしても使いたかったからであろうと考えています。なぜ、「刃」なのかというと、筆者は、この文字が、「やいば」だけで無く「は」とも読めるからだと推察しています。日本では、「問い掛け」をする際に、「は?」という発声をしますよね。つまり、「疑問を抱く」という事ですね。「疑問を抱く」、つまり「疑う」という事の大切さを、筆者は、下記の記事に記載しました。

<参考記事>

鬼殺隊の『民主主義論』

 人間を脅かす様々な災厄を「鬼」とするならば、その「鬼」を倒す為には、先ず「鬼」の存在に「気付く」事が必要になります。目に見える「鬼」ならば対処のしようも有りますが、一番恐ろしい「鬼」は目に見えない「鬼」でしょうからね。それには、先ず、ここに「鬼」が潜んでいるかも知れないという「疑い(は?)」が必要になってきます。そういう意図が、「鬼滅の刃」という作品名に込められていると筆者は考えています。これが、満更「冗談」でも無い事は、拙著「鬼滅の暗号」をお読み下さっている読者の皆様にはご理解いただけているのではないかと思います。

 さて、筆者は、「疑う」という思考の根源は、「感性」にあると考えています。「感性」「何かしっくりこない」「整っていない(美しくない)」と言った様な何らかの「不自然さ」を捉える事が「知識」を生み出す「源泉」になっているのでしょう。だから、初めは「知識」を持たずに生まれてきた「赤ん坊」が、そこを「源泉」にして「試行錯誤」を繰り返し、徐々に「知識」を獲得していけるのでしょう。そして、その「知識」は、「疑う」という事を、更に助けてくれる「便利な道具」になると思います。例えれば、暗闇で目には見えない「鬼」がいても、サーモグラフィのカメラには映ってしまうという様なものですよね。

 従って、「知識」はとても大切です。しかし、その知識が「付け焼き刃」の様なものであったなら、それは却って、自身に「災い」をもたらす原因にもなると思えます。その事を良く示す例が、今般の「コロナ騒動」に見られるのです。筆者は、今般の「コロナ騒動」では、多くのいわゆる「知識人」が、いとも簡単に騙されたと考えています。話題の「お注射」に関する学歴別の接種率を調査したあるデータ(海外)によれば、「大学卒」程度の学歴の人々の接種率が最も高く、博士といった「高学歴」の方々や、「中卒」「高卒」と言った比較的に低学歴の方々の接種率が低かった事が示されています。筆者は、「高学歴」の方々が「お注射」を避けれた大きな理由は、「高学歴」の方々の中にも少数派ではありますが、「付け焼き刃」では無いデータなどを読むしっかりとした「知識」を持った方が比較的には多かった為だと考えています。また、「中卒」「高卒」と言った方々の接種率が低かったのは、社会の中で揉まれて「苦労」する機会が多く、「政府や学者の言う事なんて、どうせ嘘っぱち」だと言う事が、「身に染みて分かっていた」からだと考えています。「悪意ある解説」では、「衛生観念も無く、怠惰だから打たない」といった理由が述べられますが、そんなものは全くの「嘘」だと思います。「政府の公式見解」通りの「極めて恐ろしく、死ぬかも知れない病気」と言う説を信じるのであれば、「無料」「お注射」を打たない理由は無い筈です。また、その程度の時間が全く取れない事も無いでしょう。

 結果的には、「付け焼き刃」の中途半端な知識を持った者が、罠に掛かって騙されてしまった訳ですが、これは、中途半端な知識で、「科学」を「妄信」している事が原因になっているでしょう。また、この事が本当に笑えないのは、自らの専門分野である筈の多くの「医師」、しかも、その分野の本流でもある免疫系の専門医までもが、「お注射」を打ってしまっている事です。この事から分かるのは、「高度な知識」という、言わば「飛び道具」よりも、「懐疑の精神」という、特段の専門知識などに依らない「経験」によって培われたしっかりとした「刃」の方が、寧ろ「底堅い」という事です。

 「高度な知識」を持っている筈の専門家が打ってしまったのは、自分は「飛び道具」を持っているんだという「慢心」が大きな原因だろうと筆者は考えています。つまり、「知識」の問題というよりも、「精神的な態度」の問題であるという事ですね。一般的に「科学」というものは、「ある基礎的な知識」をベースにして、より「高度な知識」が築かれていくという側面を持っています。こうやって、「知識の上に知識を築く」という事が、延々と行われていくのですが、「高度な知識」になるほど、「多面的」には検証されておらず、「砂上の楼閣」の様な「脆い」側面も持ちます。旧来は信じられてきた「科学的な仮説」が、新たな有力な仮説の登場によって「簡単に覆ってしまう」事があるのは、この為でしょうね。この事は、「人間の思考」にも当てはまり、筆者はそれを、下記の記事にて論じました。

<参考記事>

鬼殺隊の『文明論』

 そして、この記事において、「人間の思考」が陥り易い罠(知識の檻)を抜け出す手掛かりは、「感性」にある事を述べました。但し、注意しなければならないのは、「高度な知識」「感性」をベースにした部分から始まって別の角度から検証するという作業は、非常に苦労を伴うという事です。精神的に大きな消耗を伴うでしょう。そして、誰もそのような角度から考察してこなかった為に、「外部」に知識を求めても見つからないという事も多いでしょう。

『知識の砂上の楼閣』(作:KITAKAZE)

 この、未踏の荒野を一人で歩むような自分の中の「孤独で苦しい作業」を経験しないでやり過ごしてしまう事は、大きな問題になると思います。人間は、なまじ頭(特に「記憶力」など)が良いと、この「苦労」を経験する事無く、与えられた「知識」を丸呑みしてしまい、そういう「成功体験(安易な登山ルート)」が、人間の「慢心」を生む大きな原因になっていると筆者は考えています。また、大きく見れば、人類の繰り返し行われる愚かな「戦争」「環境破壊」「弱者の虐げ」「経済的収奪(形式を変えた戦争)」と言ったようなある種の人類の「退化」とも言えるような現象の原因は、必ずしも「人口の増加による生存競争の激化」といった様な必然的な要因だけが背後にある訳では無く、人間の「慢心」が大きく関わっていると考えています。例えば「戦争」が必然性だけで生じているのであれば、それによって、その人口の過剰部分が削がれるまでに人口が減少する必然性もまた生じるのですが、その様な事も無く、人類の人口は一貫して増加トレンドを辿って来ました。いくら戦争が「頻発化」して、「大規模化」するような近代になってもです。

世界の過去1000年間に起きた戦争をビジュアル化した映像 - YouTube

 こうした人類の「退化」とも言えるような現象の原因にも、「文明」の発展に伴って、自分自身が生み出した訳でも無い手軽に使える便利な「知識」の膨大なストックの恩恵に浴し、目先の利益の為にそれを浅はかに用いる人間の無意識的な「慢心」が関わっていると言わざるを得ないのではないでしょうか。

 皆様は、世界的なアクションスターのジャッキーチェンさんの映画で「蛇拳」という作品をご存じでしょうか。この作品は、ジャッキーチェンさんの演じる主人公が、蛇形派と呼ばれる流派の拳法を身に付け、宿敵である鷹爪派と呼ばれる流派の拳法の使い手を倒す物語なのですが、この物語のポイントは、主人公が自分の師匠から学んだ事を実践しただけで無く、それに「慢心」せずに、自ら新たな視点からの流派(猫形蛇拳)を苦心して生み出した事にあります。逆に、宿敵の鷹爪派の使い手は、自らの流派が、蛇形派に対応し易い流派であった事が「慢心」を生み、敗れる事になりました。「かわいい子には旅をさせよ」という格言がありますが、それにも通じる含蓄のある作品であると思います。

 実質的な初代のローマ教皇であったグレゴリウス1世は、人間の「傲慢」を、カトリック教会における貪食、淫蕩、金銭欲などの「七つの大罪」の中の最上位に位置づけ、別格扱いとしました。筆者は、これは、グレゴリウス1世が、人間の「慢心」というものの本当の「恐ろしさ」を良く理解していた為であろうと考えています。

 先述しました様に、専門家である筈の医師までもが、例の「お注射」の罠に嵌ってしまった原因は、「慢心」から生じた「科学への妄信」であったという事になろうかと思います。そこを上手く利用された訳です。筆者は、この「お注射」は、国民の「蒙昧度」「政府に対する妄信度」を測る「テスト」としての側面もあったのだろうと強く推察しています(※それだけでも無いとも思っています)。この点、我が国「日本」は、「抜群の成績」を収めたのでは無いでしょうか(皮肉です)。その結果として、今般の騒動が落ち着いてきた最近なって、日本の「人口減少」「社会主義化」に繫がる様な法案が、続々と提出、成立していっていますよね。こうした状況から、今般のコロナ禍が「認知戦」である事を見抜いておられる方もおられるのですが、筆者は、「認知戦」はとっくの昔から行われており、今般になって、「資源制約」などの大きな問題に直面して、その「認知戦」の「方向性」が変えられようとしているに過ぎないと考えています。

 人間は、「知識」を用いて、世の中で起こっている現象から文脈(意味)を引き出しますが、それによって引き出される文脈(意味)は、その人物の「精神的な態度」によって大きく異なると思えます。要するに、幾ら知識があっても、「慢心」に陥るような精神の貧しい人物は、現象を甘く捉えたり、物事を自分の精神を反映した理解しやすい方向に固定化して解釈したりして、誤った結論を導く事に繫がってしまうのです。

 人間という存在は、自らの精神性を問わずに形式だけの知識を偏重していては、人類が築いた膨大な「知識の泉」をいくら探しても、本当の答えは見つけられないのでしょう。筆者は、本当の「知恵(金の斧)」は、「知識の泉」の中から現れる神様(他力)が授けてくれる訳では無く、自分自身の「心の泉」の中の神様(自力)が授けてくれると考えています。そして、それを理解した人間のみが、人類が築いた「知識の泉」からも、「金の斧」を見つける事ができると考えています。この事を筆者は、冒頭の「風刺画」にも、風刺の一部として盛り込んだのですが、お気付きになりましたでしょうか。「水清ければ魚棲まず」という諺がありますが、精神的に高潔で本当に知識の深い人間というのは、非常に稀有な存在です。かなり知識が深い人間も世の中にはいますが、それに加えて精神的にも高潔な人間は殆ど見掛けません。これは、「知識に溺れ、傲慢になりがち」な人間の性質を良く示しているのでしょう。逆に、知識を「悪用」するのは容易ですよね。人間は、そういう方向に流されやすいのでしょう。

 また、「大隠は朝市に隠る」という諺があるのですが、これは、「本当に悟りを開いた優れた者は、深山幽谷などにいるのではなく、却って、普通の街中に住み、俗人と共に超然として暮らしているものである」という意味を持ちます。仮にそういう人間が存在しても、つまらない「肩書き」等ばかりに囚われる「我々大衆」の目には映らず、そういう人間を見出す事が中々できないのが人間の性分なのでしょう。

 もっと言えば、そもそも、有限な存在である人間は、全ての分野で「専門家」になる様な全能の「知識」を得る事は、根本的に無理なのでしょう。また、肉体という檻に閉じ込められ、恐怖や欲望から絶対に逃れられない人間が、崇高な程に高潔な精神を得るというのも夢物語なのでしょう。そういう自らの「無力さ」と「愚かさ」をわきまえた上で、謙虚に精神的に学んでいく事の大切さを、多くの宗教が説いている様に思えます。 

最後まで読んで下さった皆様に、「中島みゆき」さんの曲を捧げます。

https://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE

(終わり)

「鬼滅の暗号」

鬼殺隊の『文明論』

鬼殺隊の『民主主義論』

「鬼滅の刃とノアの方舟」<鬼滅の刃の「隠(かくし)」の正体>

KITAKAZE

「鬼滅の刃」「刀鍛冶の里編」、「柱稽古編」#鬼滅の刃

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?