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おしゃべりは、いつもふたりで(1)

『満月の夜は何かが起こる』

電気のついていない部屋の中、雑に開けられたカーテンに身を隠すようにしてきなこは窓の外を見た。

「今日は満月なのね」

都会の空に星は少ない。今日は余計に少ない気がする。金曜だから、皆、夜の街にくりだしているのかもしれない。
しかし月はまわりに誰もいなくなってもおかまいなしで、一寸の欠けもない堂々とした姿で静かにいつもの場所にいた。

「なによ、ちょっとかっこいいじゃない。ねぇ、道明寺?」

返事はない。そのかわり、部屋の奥の空気がかすかに動いた。

「道明寺、聞いてる? 今日は月が」
「あいつ、遅いな」

きなこは鼻先にしわを寄せた。
道明寺はロマンを解さない。どこまでも現実的で、あくまでも利己的な、要約すれば「つまらない男」。それがきなこの道明寺に対する評価だった。
とはいえ、確かに遅い——きなこは手入れの行き届いたやわらかな茶毛をふわりとひるがえして、窓辺から身を離した。

「かの子ちゃん、今日は飲み会だって言ってた?」
「聞いていない」
「どうしたのかしら。突然のお誘いには行っちゃダメっていつも言っているのに」
「……おい」

低い声で道明寺が言った。
部屋に差し込んだ月の光が道明寺の黒いヒゲに宿り、艶めいた光を放っている。

「何かあったんじゃないのか」
「何かって、何よ」
「普段ならとっくに帰ってきている頃だ。まさか、事故にでもあったんじゃ……」
「縁起でもないこと言わないでよ」

うろたえる道明寺の目の前ぎりぎりを、きなこはわざとゆっくり横切ってキッチンに向かった。今朝、かの子が用意していったきなこ専用の飲料水はまだ十分残っている。腹は減っているが、倒れそうなほどではない。

「道明寺、そっちの水はまだある?」
「ああ、まだ少し残っている」
「おなかは?」
「いつも空いている」
「それは、知っているけど。まだガマンできる?」
「ああ。かの子は今朝、帰りにイイモノを買ってくると言って出かけていったんだ。だから俺はこうしてワラも食べず待っているわけだが……ああ! かの子! 事故にあうなんて!」
「だから、変なこと言わないでって!」

きなこに一喝されてなお、道明寺は不安を抑えきれず床を力強く蹴った。木製の床材とステンレスの金網がぶつかり合い、心臓が飛び上がるほど大きな音が部屋に響きわたる。
きなこは迷惑そうに耳を倒してから、はっとしてまんまるの瞳孔をさらに大きく開いた。

「ねぇ、もしかして、かの子ちゃんの帰りが遅いのって、そのイイモノを買いに行ってるせいなんじゃない?」
「そうか。イチゴやバナナがそう頻繁に供されないのは、近くに売っていないためだったのか……なるほど、合点がいった」
「イイモノがイチゴやバナナだなんて、言ってないけど」

やれやれというように、道明寺は首を左右に振った。
オメガ型の口元から、フッとニヒルな笑いが漏れる。

「これだから、仔猫ちゃんは」
「あたし、道明寺より年上よ?」
「イイモノといったら果物に決まっているだろう。かの子と俺の仲だ、何も言わなくたって俺がそろそろジューシーなものが食べたいことくらい、気づいてくれているはずさ」

それをいうなら、かの子とのつきあいは自分の方が長いから、そろそろマグロかサーモンが食べたいことに気がついているはずだ。
そう言いかけた時、きなこの耳が玄関の方を向いた。
玄関の方から音がする。
道明寺も長く垂れた耳をがんばって持ち上げた。

部屋の空気が大きく動いた。
気密性の高いマンションは、ドアが開くだけで室内の気圧が変わる。
玄関の人感センサーが作動して灯がつくのが、ドアについたすりガラスをとおして見えた。
コートを脱ぐ衣擦れの音、スーパーのビニール袋の音、慌てすぎて履きそこねたスリッパのひっくりかえる音、鍵とキーホルダーがぶつかる小さな金属音、それらいろいろな音を出ばやしにしてリビングルームのドアが開いた。

「ごめん、遅くなった!」

かの子だ。両手いっぱいに荷物を持っている。きなこと道明寺のためにいつもつけっぱなしにしているエアコンのせいで、部屋に入ってくるなりメガネが少し曇った。

明るくなった室内に、きなこは二、三度まばたきをして目を細めると、全然待ってなどいなかったかのようにゆっくりとかの子の足元に身を寄せて、ゴージャスなしっぽをぴんと立てた。

「ニャア」
「ただいま、きなこ。すぐにごはんにするね」

きなこが優雅なふるまいを披露する一方、道明寺は歯をむき出しにして銀色の金網に噛みついていた。うさぎ用のケージが小刻みに揺れ、出入り口の扉がガンガンと大きな音をたてている。道明寺なりの「おかえり」だ。
大きな声を出せないうさぎでも、何かを伝えたい場合がある。そんなとき、道明寺はいつもケージを揺らすことにしていた。

「道明寺、ただいま! ちゃんと買ってきたよ」

かの子は道明寺に笑顔を向けて、ビニール袋に手を突っ込んだ。
道明寺はケージをゆするのをやめ、かの子の挙動を注視した。
袋の中から、かの子が取り出したものは――

「はい、セロリ!」

せわしなくヒクヒクと動いていた道明寺の鼻がひたりと止まった。
外から帰ってきたかの子に反応して、エアコンが低く唸り始める。送風口から吐き出された暖かな風に、緑色の葉が揺れた。

「ちょっと待ってて。手、洗ってくるから」

かの子は洗面所に行ってしまった。
きなこがかみ殺したような笑みを浮かべている。
道明寺は何事もなかったように、長く垂れた耳を毛繕いしはじめた。

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2018/03/02 初稿
2018/03/09 微修正
2018/05/28 本文修正、かつ改題。『3月2日(金)』から『おしゃべりは、いつもふたりで(1)』とし、本文冒頭にサブタイトルを挿入。

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