紫川と小倉城

小倉、原爆が落とされなかった街

私は最近、東京から北九州に転居した者です。北九州市小倉は、広島の次に原爆投下が予定されていた地であったことは知っておりました。戦時中、武器を製造していた旧小倉陸軍造兵廠敷地が目標地点だったといいます。もし、ここに投下されていたら、今のこの街はありません。

この敷地の一部が現在の勝山公園になったそうです。現在はこの勝山公園に長崎から贈られた「長崎の鐘」のレプリカが置かれています。この「長崎の鐘」は爆心地近くに立っていた浦上天主堂が破壊された後、そのがれきの中から奇跡的に掘り出されたものだそうです。

勝山公園

1945年8月9日、長崎に原爆が投下されました。8月6日、広島に原爆が投下された3日後のことです。ウィキペディアの「長崎市への原子爆弾投下」によれば、米軍機は小倉の上空で45分もの間、原爆の投下目標を探していたそうです。煙で見えなかったために2番目の目標地であった長崎に向かったのです。ウィキペディアには戦後、米軍が日本側の資料を使用してまとめた「原爆の影響」というビデオも掲載されています。広島と長崎の街の被爆状況が淡々と紹介されていく映像です。このナレーションの方はさぞかし感情を抑えて原稿を読んだことでしょう。この映像の中に、無残になぎ倒されてバラバラになったカソリック教会(浦上天主堂)が紹介されています。なお、英語版Wikipediaではこのビデオ(原題『The General Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki』)を簡単には見つけられないようです。

10数年前、私は「ぼっち修学旅行」を広島で敢行し、その際、初めて原爆資料館(広島平和記念資料館)を訪れました。予想外だったのは、多くの展示に想像力が必要で、悲しみや苦しみなどの感情がそぎ落とされたクールな展示が多かったこと。少々戸惑い、また残念にも思いました。後半の展示コーナーでは亡くなった児童の衣服や再現された人形の展示などもあり、被害がある程度は視覚化されていました。ですが、「現実はこんなものではない」でしょう。正直なところ、展示の始めから悲惨さをもっと直接的にアピールして欲しいともどかしく感じました。退屈に感じたのか、欧米からの来訪者のグループがデータなどのパネル展示の途中で出て行ってしまうのを目撃しました。

現在の展示は最初から、被ばく者の悲惨さが伝わる展示になっていることを願います。なお、海外には日本が原爆保有国だと思っている方々も少なくないのです。本当ですよ。

「ぼっち修学旅行」ではその後、広島市内のバス停でご高齢の被ばく者のご婦人にお会いしました。その方は被ばく後、長年、体調が悪いご様子でしたが、被ばく者の認定を受けずに治療をされているとのことでした。「国のご迷惑になるから」、と。こんな方がいらっしゃったのか、とたいへん衝撃を受けました。被曝すると何世代にも渡って健康被害があると聞きます。ところが、ご自身が被ばくされてもこうして数十年、何も言わずに耐えている方がいらっしゃる。今でも、広島や長崎の方々のことを想うと、自分や親族の身代わりとなったように思われて申し訳ない気持ちを感じています。

小倉風景02


みんながちょっとづつやさしくなれば、毎日の生活がちょっと楽になりますよね。ありがとうって言うとか、ニコっとしたり、駅の階段で蹴らない、とか。私はベランダの雀さんともっと仲良くなろうと奮闘中。最近はカマキリさんともお友達。みなさんはどんな感じかな?