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頑張る私が削られていく。

最近ふと「昔ほど頑張れてないなぁ」と思うことがある。

ひたむきさ、のようなものがゴリッと奪われてしまったような感覚だ。少し前まで、同じ課題に取り組むにしてももう少し真面目に練習していたのに、今はもうその真面目さがどこかへ行ってしまったように感じる。

例えば、スピーチの発表会に出るとなったら、前日まで何度も何度も練習を繰り返した。でも、今はそんなに繰り返さない。数度やって終わりだ。でも、それは上手くなったからではない。実際、プレゼンテーションをするにしても、作るパワーポイントの資料は昔と比べてすっかりクオリティが落ちているように思える。ただ、やる気がないのだ。

これがうまく行ったところでどうなるのだろう。そんなこと、昔は考えなかった。ただ、やりたいことや、やってみたいことに溢れていて、それを表現するのが楽しかった。でも今は、その表現が面倒くさく感じてしまう。これをしてなんの意味があるのだろうか、そんな問いを投げかけては帰ってこない答えに悶々とする。

昔は電車の中で大人の人がプレゼンテーションをする動画を毎日のように見ていた。ただただ面白かったし、新しく手にしたiPadをとにかく使ってみたかったからだ。説明することに面白さを感じて、本を読んで実際にやってみると思いの外褒められてしまった。意図せず、大して頑張りもせずに成果だけがポンと貰えてしまったのだ。

プレゼンテーション大会のメンバーの1人として選出された。

それなのに、それ以降は動画を見ることも練習をすることもやめてしまった。そんなことしなくても自分にはできるという慢心があったのだと思う。みるみるうちにプレゼンテーションは下手くそになっていった。そして、少し昔を振り返り、何の気なしにこなせていた行動の一つ一つがプレゼンテーションの練習になっていたことと、もう一度やってみようと行動する気力が無いことばかりが実感として手元に落ちてきた。

でも、一度褒められてしまうと、周りの人たちからも「話すのがうまいやつ」として見られてしまう。だから、パワーポイントを見て欲しいと相談を受けることもあったし、私はそれに対応もしていたけれど、正直なところどれも的を得ていなかったのではないかと思える。

「ここは見づらい」

「ここはこう表現したほうがいいと思う」

しかし、じゃあそれを私はできるか、と問い直したときにはきっと押し黙ってしまっただろう。そんなことを聞いてくる人が居なかっただけ、幸運だった。

「代わりにやって見るから見ていて」

と言って、練習役を代わったこともある。でも、その時あったのは、教えたい気持ちよりも「お前よりはうまい」ということを表現したいがための驕りだった。でも、それに見合った練習を私は何も積んでいない。

褒められると、楽しくなくなってしまうのはなぜなのだろう。

「ありがとう」と言われると、もう同じことができなくなってしまうのは、どうしてなのだろう。前回以上に良いものを作ろう、という気持ちよりも、見るからに酷いものが出来上がるように自然と行動してしまう。

できることが増えていくのは嬉しいけれど、できた所を見つけられるのはあまりにも苦手だ。褒められて見られると、今までやってきた何でもないことがいきなり、頑張らなくてはいけないものにすり替わってしまう。

そして、私はいつも頑張ることが出来ない。

「○○をします」と、言うのがすごく怖いのだ。「○○になることを狙って☓☓を試してみます」と言うだけでもすごく怖い。いつも、先に体を動かして出た成果や、やってみたことなどの事実に、理由を後付けしている。

先日、本名の方で書いたエッセイが賞をもらった。秀作や特別賞のあたりだ。賞をもらうということは、あたりまえだがエッセイを書いて応募をしていたことになる。もしかしたら良いところに行くんじゃないか、という下心でいっぱいだ。でも、投稿そのものにさして苦労はしなかった。書いていてとても楽しかったし、頭をひねってううんと悩んでアイデアを絞り出したということもない。

「たくさんたくさん応募したら一つくらいは認められるだろうと思って、とにかく書いて投稿しまくったんです。それで今回、賞がもらえました」

そんな説明を、何度かした。賞ありきでなくては、その経緯を話すことができない。

「よくそんなことできたね」と言われると「こうなることも予想してました」というようなことを答えてしまう。

間違ってはいない。そんなことになったらいいなぁと、いくつか考えていた理想の一つだ。でも、実際動いているときは忘れていたし、常に頭の中に結果のことがあるわけではなかった。だから、聞かれて初めて、今までの行動が結果に向かって伸びていたことに気がつく。単なる思いつきで動いていたことが、結果的に今に繋がっていたことを不意に思い出して「これをしたら、こういう結果になると思ってやっていたんです」なんて、言ってしまう自分がいるのだ。

でもそれが嘘っぽく感じるのは、結果を宣言してから行動しろと言われたら無理だろうなぁと思う自分がいるからだ。

どんなに結果と理由の話をしても「自信がついたので、次はこのエッセイで賞を狙ってみます」と言って応募をする気には全然なれなかった。今度は、エッセイが頑張りの対象になってしまうのではないかと怯えてしまい、事実、暫くの間はエッセイ書くことができなかった。

書けなくなった私は、「よくまぁ毎日書いていたな」と、これまでのエッセイを眺めた。同時に、そうやって物事を眺めたときは、以前と同じように書くことができなくなる前兆であることも知っている。

「頑張ったね」と、自分を認める時。

「よくやったな」と、振り返る時。

それは「もう、同じことはできねぇな」という諦めでもある。昔の自分に満足してしまうと、今日の自分はなぜだか頑張れない。

思えば私はいつも頑張れないのだ。頑張っていたことを自覚してしまうと、もう体がヘタってしまう。

本当はそんなに頭が良くないことも知っている。思い違いが多く、見当違いが多いこともよく分かっている。だから、そこを無視して結果を出せる人でありたくはないのだ。

私は基本的にダメで、欠陥が多い。だから、必ずしも100%望んだ結果が出るわけではない。

それが悔しくて仕方がない。

ビジネスをしている人は本当にすごい。

「私達は○○をします」と宣言してから、それを達成している。ただ黙々と、着々と相手に期待してもらってその期待に応えている。なんで私にはできないのだろうと、苦しむことがすごく多い。だから、私もそうなりたくて、下手くそな演技をしてしまうのだ。

「最初から狙ってましたよ」

結果を出すつもりでいましたよ。と。

そして、頑張るのをやめてしまう。前までなんともなくできたことが、意識した瞬間に頑張らないとできないことへ変貌する。

見て欲しい、と、見られたくない、の間で揺れ動く気持ちを感じ、「あぁ、今日はまだ書ける」と、ホッとしている。

でも、ひたむきさは、まだゴリッと削れて、歪な形を作っている。それが私だ。

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