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私の好きな歌を贈れば

幼稚園児か、小学生くらいの頃に「歌のプレゼントをしましょう」という名目で歌うことがよくあった。

先生の伴奏が始まり、練習した歌をうたう。毎週音楽の時間に歌っていた歌は、間違えそうなところがいくつかあったけれど、そこを乗り越えるとなんだか安心した。うたっているうちに歌は終わり、私達がお辞儀をするとそれに応えで拍手が響いた。

しかし思った、プレゼントでもらえるなら、ゲームとかお菓子の方がいい。歌なんてもらっても絶対に嬉しくない。自分たちが歌っている様子を考えながら「これ、本当に嬉しいのか?」と思っていたし、歌い終わってお辞儀をして拍手を貰ってなお「……本当に嬉しいのか……?」という疑問は拭い去れなかったし、両親から「良かったよ」と言われても何が良かったのか全く腑に落ちない。

本当にうれしいのだろうか。例えばこれが今日、歌の発表会ではなくて誰かの誕生日だったとして「プレゼントは歌です」と言われたとき、相手はどんな顔をしているのだろう。少なくとも、心から喜んでいるとは全く思えなかった。表立って言うことなんて出来なかったけど、「歌のプレゼントって何?」という疑問があったし、どことなく手抜き感があるプレゼントだと思っていた。同じように授業の時間で作ったプレゼントとして、マフラーがあった。ペットボトルに割りばしを取り付けたお手製の編み込み機で、毎日毎日コツコツ芋虫みたいなマフラーを編み込んで、母に渡した。所詮は子どもの作ったもので、たいして温かくもなかっただろうに、母はしばらくそのマフラーをつけて出かけていた。でも、自分の作ったものを身に着けてくれるのは嬉しかった。だからこそより一層、たった一瞬だけ歌って、その後は消えてしまうものをプレゼントと呼んでいいのかばかり考えていて、練習している時も、歌っている時も、拍手をもらっている時も夢中に離れなかった。

自分の好きな時に、好きな歌を歌うのが一番楽しくて、誰かのためにうたう歌はさっぱり意味が分からない。それが、小さい私と歌のかかわり方だった。

学年が上がるに連れ、歌のプレゼントを贈る機会は段々と無くなっていき、みんなで歌をうたう機会は卒業式くらいしかなくなっていた。さらに中学生になって引きこもりが始まると、周りの人が聞いている歌からも隔絶された。

結果的に聞いていた歌はバンプ・オブ・チキンとか、RADWIMPSだ。同年代の人がドハマリしていた歌に私も漏れることなくハマっていた。中学、高校ともなると、音楽というブームがクラスを席巻し、みんな知ってる歌にハマる人や、俺だけしか知らない洋楽を突き詰める人がいる、という都市伝説的な情報をどこかの本で読んだ。しかし、引きこもりまっしぐらだった私はクラスのブームというものからは縁遠い存在であり、周りの人がなんの歌を聴いているのか全く知らなかったし、そもそも周りにいる人が歌を聴いているのかどうかを気にしたこともなかった。

ただ夜中に、動画サイトでアニメを見ている時、関連動画として音楽に漂着した。動画サイトではMADと言って、アニメ映像のシーンと音楽を組み合わせたPVのようなものが氾濫している。深夜アニメにどっぷりハマっていた私は、その流れでアニメベースのMADをよく見ていてその流れで沢山の音楽を知った。バンプ・オブ・チキンもRADWIMPSも、初めて知ったのはMADからだ。でも、シェアする友達もいなかったので、私はそういう動画をただただ「おー、すげー」と言いながら眺めているだけだった。

高校生になって友達から「お前はRADなんか知らないだろ」と言われたことがある。RADWIMPSをRADと略すとこなんか知らなかった私は「知らない」と答えた。

「歌とか聞くの?」

と聞かれて答えた歌がRADWIMPSの有心論だったあたりは、信じられないという顔をされたけれど、メロディーを口ずさむと私も歌を聞くことが証明された。

ボーカロイドが動画サイトを席巻し始め、初音ミクなどの歌もスクスクと覚えた。カラオケにも行くようになったのだが、しかしそれでも、友達と歌のシェアをすることは殆どなかった。まだ当時はLINEなどは無く、私はケータイを持っていなかった。歌をシェアするにしても、CDを持ってくるのもめんどくさい。また、CDがそもそもない歌というのも多かった。

私の高校時代、周囲を流れていた歌は動画サイトに歌をアップロードしているアマチュアの人(もしくは、当時まだアマチュアだった人)が作ったりうたったりしている歌だった。特によくヒットしているは、シェアするというよりも、いつの間にか自分も含めた歌みんなが知っている。誰が教えるでもなく、ヒットチャートはいつの間にか私達の中にインストールされているようだった。

だから、金曜夕方の音楽番組で街頭インタビューされている女子高生が「この歌いいから聴いてみな、って言われて好きになりましたー」というようなやり取りは全部ウソだと思っていた。

大学生になってからも、歌の聞き方は変わらずシェアすることなど全くない。むしろ、それぞれの聴く歌がバラバラになってきて、もはや共有というよりもそれぞれの好きなものを突き詰めていくのが一番いいように思われた。ところが、Twitterの記事や好きな本やイラストなどをLINEでシェアしているうちに、音楽がその中へ混ざってくるようになった。

「この歌知ってる?」

「これ、良かった」

簡素な文言と共にリンクが飛んでくる。その歌を聴いてみるとたしかに良くて、うまく言葉にはできないけれど「いいね」とか「聞きましたわ」などという、また簡素なメッセージを送り返したし、CDも借りた。ウソだと思っていた「友だちから勧められて歌を聴きました」というパターンを自分でやっている。今よく聴く歌の中には間違いなく「友だちから勧められて聞いたら良かった」というものが、結構な数入っている。さらに「これ、お前のテーマソングだわ」という、相手から見た私の印象ソングが送られてくることもあった。

好きな歌のやり取りが自然になると、人に送りたくなる歌と出会うことが増えてきた。落ち込んでいるシチュエーションだったり、なんとなくその人のことを思い出すものであったり、言葉に出来ない部分をその音楽が助けてくれるのではないかという期待があった。

「これ、君にぴったりだと思うんだ」

歌を送ろうとしたけれど、恥ずかしかった。

それはまさに、私がずっと避けてきた歌のプレゼントだったからだ。今でも、誕生日に自作の歌を作って送ったというエピソードを聞くたびに「お前よくそんな勇気あるな」と思うのは、やっぱり自分の好きなときに好きな歌をうたうのが一番であって、誰かのための歌というものが全然ピンと来ないからなのだろう。

歌うのが好きだ、聴くのも好きだ。でも、誰かのための歌だと思うと、とたんに恥ずかしくなってしまう。

「○○くんの歌声、すっごい好き」

ある日カラオケで言われたセリフだ。でも、私がその人のために歌うと言ったらどうだろう。私は最後まで歌いきれるかわからないし、その人が受け取ってくれるかも解らない。

私と歌の関係は、いつまでも一対一だ。歌を通した人間関係というものは、まだ慣れない。

ただ、好きでもない歌をうたってプレゼントしていたときよりも、友だちを思い出す歌をその友達に贈るときのほうが、プレゼントを買っている時に近い心境だった。

この歌があなたに届きますように。

柄にもなく、そんなことを思いながら、歌に繋がるリンクにコメントを添えて送った。

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