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小声で挨拶しています

「よろしくお願いします」

と、ディスプレイに向かって頭を下げた。

小学生の頃に始めた将棋に、大学生になってから再び挑戦している。スマートフォンでもパソコンでも、どこでも将棋ができてしまうので移動時間や待ち時間などには将棋をするようになった。そんなときも一応、相手に頭を下げて「よろしくお願いします」と挨拶をするようになった。

挨拶は大事だ。挨拶の魔法という言葉も昔流行ったりした。挨拶は生活の基本であり、おろそかにしてはならないのだ。そう、例え、ディスプレイ越しであっても相手に敬意を払うのは人間として当然の、えー、ほら、あるじゃないですか、徳みたいな。仏の心的なほら、ね? あるわけですよ。

……すいません、嘘です。

どう逆立ちしても私は高貴な精神を持っている自信がない。生活の基本とは言ったが、そもそも私は結構生活をおろそかにしている。挨拶も大事だけどちゃんと食事もとろうね、などと通信簿に書かれてしまいかねない生活を送っているのが実状だ。

では、なんのための挨拶かというと勝つための挨拶である。オンラインで対局をしていると、ついつい相手の存在があることを忘れてしまう。普段使っているサイトは現在の記録を見てみるとすでに500回くらい負けている。対して勝ったのは300回ちょっと。もう、ガッツンガッツン負けている。ボロ負けである。

対面に相手がいると、そんなに勝率は悪くない。道場などではアマチュア初段くらいの戦闘力は備えている。それが、オンライン対局では11級である。初段から12段階も下だ。

敗因はいろいろとあるのだが、画面に向かって対局していると、いつの間にやら自分に都合のいい手をさしてくれるコンピューターと戦っているような気分になってしまう。いよいよクライマックスというタイミングでとんでもない見落としをしてしまうことが多かった。その結果が、500敗である。テストの見直しをしないがゆえに、きちんと合格できないようなものだ。

画面越しに人がいる。インターネットを漂っていると、この当たり前のことがいつの間にかおろそかになることがあまりにも多い。何より、とても見えづらいのだ。

こうしてエッセイを書いていると「えっ!? 見てたんですか!?」という人に見つかることもある。ましてや、なんのアプローチもないと見られたことにすら気が付かないだろう。

文章は誰か一人に向けて書くことをイメージするとよい。ということが、どこかの本に書いてあった。どこかのサイトにもあった。何度も何度も、言葉を変えて色んな所に書かれている。しかし、今の私の技量ではインターネット上の誰かに向けて書き、その誰かからリアクションが来ることは稀である。

なので「誰も聞いてないっしょ」とか「テキトーでいいっしょ」なんて思いながら、色んなサイトに顔を出したり、文章を書いたり、将棋をしたりしている。

私が画面の向こう側に人がいることを忘れた結果は「めちゃくちゃひどい負け方をする」という結果で返ってくる。当然、相手のことをナメてかかると負ける。向こう側で座っているのは、私と同じ人間だ。そうした相手に敬意を払う気持ちがちょっとでも揺らげば将棋は途端に負けるようになってしまう。なので私は将棋盤を挟んだ向こうに相手がいることを思い出すために挨拶をしている。

もちろん、将棋はそもそものマナーとして対局する前にまずは「よろしくお願いします」と挨拶をして、最後は「負けました」とか「ありがとうございました」と挨拶をしておわることを教わる。私も教わった。

勝っても驕らず、負けたらつつましく反省する。しかし、一旦そういう高貴な精神は置いておいておきたい。私はめちゃくちゃ勝って、こぶしを天につき上げ「よっしゃぁぁぁ!」と叫びたいのだ。もちろん人前ではやらない。電車の中でもやらない。パソコンの前でもやらないけれど、心ではいつでも「こいつには絶対負けない」と思っている。ただ、叫びだしたいくらい熾烈な熱戦は、終わった後は「よっしゃぁ!!」という余裕は実際無い。もう最後の最後まで相手を追い詰められるか必死に計算している。終わった後は今までずっと息を止めていたんじゃないかと思うくらい深くため息をつくことがほとんどだ。「よっしゃぁぁぁ!」なんてもう、叫びたいくらい頑張った対局ほど、終わった後はそれどころではないので、今のところ全然、叫べていない。絞るようなガッツポーズを腰のあたりで小さく握るのが精いっぱいである。相手に気を使っているからとか、こっそりやっているからではなく、本当にもう、手がそこより上にあがらない。

勝ちにたどり着くためにはまず「相手が目の前にいる」という前提を揺るがさないように気を配るのが何よりも大切だ。500回負けた私は「あ、本当に人間と戦っているんだな」という、根本的な部分を確認しただけだった。

だからこそ「絶対こいつに負けたくない」という理由で「よろしくお願いします」と挨拶をする。外から見たら、まじめな人に見えるかもしれない。しかし、ちゃんと挨拶することは、「絶対おまえになんか負けないから」という、負けず嫌い精神の現れだ。

そこに相手が存在することを、うっかり忘れてしまわないように、毎回画面に頭を下げている。

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