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節目は、過去を忘れるために。

エッセイを書いて1年が経った。

2017年4月9日の午前2時35分。布団の上でゴロゴロ転がりながら、スマホで文章を打ち込んでいたのだと思う。布団でスマホ、が私がエッセイを書く時の基本スタイルだ。今日は終業後の職場で執筆中。使っているのもパソコンだ。この1年、書き始めてからずいぶんと環境も変化した。年末には関西に飛んだ。1月から働き始めた職場も、気が付けば3か月が過ぎている。

大学を卒業した以後にも節目はやってくる。今日のようにエッセイを書き始めた記念日。恋人と付き合った記念日。記念日ばかりではない、事故のような不幸が重なって忘れられない日が訪れることもある。卒業式は「あと○日」と準備ができるのに、それ以降の節目ときたら突然「はい、今が節目でした! もう戻れません!」と一方的に叫んで終わらせてしまう。もしくは「あぁ、その節目はもう過ぎてますね」と他人事のように告げるだけだ。ありとあらゆるものの境目があいまいになってきて、ただ変わったことや、変わっていたことだけが何かの拍子に告げられる。

私だって、自分が知らない間に「おっさん」になっているのだろう。おっさん記念日がほしい。いや、実際あるのは嫌だけど、しかし無いよりは良い。「はい、今日からおっさん。お前もう若くない」となる節目がわかっているなら「やべぇ、若者のうちにやっとかないと!」と多少は必死になれるのかもしれない。ただ、実際に訪れるのは「なんか気が付いたらおっさんになってたんだよね」という他人事のようなセリフかもしれない。1月という微妙な時期に入社した私は入社式がなかった。なんか気が付いたら学生が終わっていて、なんだか気が付いたら社会人になっている。大学を卒業したばかりの現在、既にそんな状態だ。

いちいち思い出さないと節目は勝手に過ぎていく。祝うきっかけも、懺悔するきっかけも逃してしまう。学生の頃はなんとなく同じ一日をずっと過ごしていても、入学、卒業と、今までは誰かが勝手に盛大に祝ってくれていた。思い出さなくてはいけない記念日すべてをないがしろにしていても「あぁ、卒業だなぁ」とか「20歳になったんだなぁ」とぼんやり薄目で節目を眺められたのは、幸せなことだったのかもしれない。

ゴールとも、スタートともわからない節目を、自分で決める。なんとめんどくさいことだろう。そうして私は、記念日をないがしろにして生きてきた。喫緊のないがしろエピソードとしては、先日恋人と付き合ってから7年目に突入した記念日を、日付が変わる30分前に恋人から教えられる形で思い出したことだろうか。当然何の準備もない。ただ恋人が「7年目だねぇ」とちょっとご機嫌な声色で報告してくるのを、聞き流していただけである。節目らしい会話もそれだけで、その後はいつものようにお互いに好きなことをして過ごした。私は将棋をしていたし、恋人も恋人で何かしらのことをしていた。それが私にとっては心地いい。恋人にもそうあってほしいと思う。

恋人と付き合ってきた年月に比べれば、エッセイを書いてきた歴史はとても浅いものだ。しかし、たった1年前のことなのに、エッセイを書き始めたきっかけが思い出せない。それ以上に、うまくまとまるようにも思えなかった。始めた理由の心当たりはいくつかある。ただ、そのうちのどれがトリガーとなって私に文章を書かせていたのか全く分からない。たぶん、とても些細なことか、いろいろな思うことが積もり積もって、エッセイを書くという暴挙に出てしまった。そして、今日まで暴挙がなんだかんだと続いてしまっている。

時折手を止めて振り返ってみると、この1年間すごくいろいろなことがあったような気がする。一言では語りつくせないほど、沢山のことがあった。就活もあったし、ラジオも始めたし、エッセイが教授に発見され、友達にも見せまくり、お世話になったバイト先を辞め、関西にも引っ越して、今は塾で先生をしている。まさに「紆余曲折の末」という言葉がぴったりなほど迷走して今日、誰もいなくなった職場で一人、エッセイを書いている。今まで書いてきた一つひとつが、昔の自分と向き合う節目だったのかもしれない。でも、私は大体そのすべてを忘れてしまう。

節目は、何のためにあるのだろう。もしかしたら、忘れるためかもしれない。その節目以前のことを、いったん全てゼロにする。清算する。また一から始める。時には、感謝を、時には謝罪を、文章に込めた。場合によっては、公開したエッセイのリンクを本人に送ったりもした。

私は大切な日がいつだったのかを忘れてしまう。でも、大切にしている出来事のほうは、まぁまぁ、覚えていることができる。思い返してみれば大切なことをエッセイに書いて一つずつ私の中から消して、外に残す作業がnoteでエッセイを書くことだったのかもしれない。1年間で408個のノートを書いた。(トークやラジオも入っているので、正確なエッセイの数ではない)少なくとも400回くらい、自分の思い出や過去を振り返るきっかけがあったことになる。

さして役にも立たず、学びもなく、明日から何に使えるわけでもない。有益ではない、しかしまた害でもない。誰を傷つけることも、癒すことも目的としない。ただただ、素直に、自分の中にある気持ちを素直に、文章に直していく。そんなことが少しでもできているのなら、そろそろ「エッセイスト」と名乗ってもいいのではないかと、調子に乗ってみる1周年。

これからもどうぞ、よろしくお願いいたします。

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