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【結婚するので苗字が変わります】

 常日頃キッチンタイマーという名前でエッセイを書いている私ですが、生身の方の私は24歳男性で、スーツを着ないタイプの社会人をしています。そしてこの度、結婚に伴い苗字が変わります。

 こうしたお話をいたしますと、いろいろと質問をいただくことがありまして、例えば「婿養子になるの?」というものがありますが、それとはまた違うものです。加えて言えば、互いの家柄をかけた争いも全くありませんでした。どちらかというと私が突然「せっかくだから苗字変えるわ」と言い始めたので、その動揺がすさまじい速度でありとあらゆる方向に広がり、大変ぎょっとした顔がずらっとこちらに向いたので「え? 何? 何かダメなの?」と聞いて回りました。

 例えば家柄の話をいたしますと、いわれのある名家ではありません。曾祖父の代が餅屋をしていたとのことなので、先祖は百姓か、そうではなかったとしても「何かしらの米」とは縁のある家計であると思われます。しかし、家柄として代々引き継いでいくものがあるかというとそういうわけでもありません。

 その上、私の父は三男です。仮に何か財産があったとしても長男が家を、次男がロバなどの家畜を継いだとして、私の父がもらえるのは猫くらいです。おとぎ話なら大金持ちになりそうな展開ですが、父はどちらかというと犬派だったのでそういうドラマチックな話はありませんでした。

 向こうのご家庭のことも一応確認したところ、少なくとも巨大な財閥ではないようです。

「じゃあいいか」

 そういうことで、私が苗字を変える運びとなりました。

 ここまで話しますと多くの方は動揺しつつも「そうかそうか」とおっしゃってくださるのですが、両親や祖父母はそうも参りませんでした。なのでもう一つ、もう半分、裏側の理由を話すことになりました。

 私は水を一口飲むと正座をして、仰々しく切り出しました。これから話すことは、私の理屈です、しかし、何より「こいつは真剣に話しているぞ」という雰囲気が大事でした。

 結婚というのは、始まって早々に女性はめんどくさい手続きが始まります。その一歩目が苗字を変えるということです。結婚したともなれば、とりあえず今の日本のルールでは、苗字を揃えねばなりません。夫婦別姓にできるのであれば楽なのですが、今の時代はとりあえず「どっちかの苗字にそろえてね」というのがルールです。今後の展開に期待されるところですが、ひとまず私たちが結婚するまでに何か変わるわけではなさそうです。

 苗字を変えると、住民票、口座、カード、いろいろなものを変えなくてはいけません。ちょっと具体的なところですと、今住んでいる家の契約や、保険証なども変わります。社会人ともなると、自分の名前に紐づいた契約がずいぶんと多くなるものです。

 それを、一つ一つ変えねばなりません。今の制度では、それは苗字を変える女性が当たり前のように背負っています。

 私はどうあれ、隣にいる人が背負っている荷物があって、たまたま私と代われるのなら交代してみたいと思いました。これから恋人の遭遇する多くの困難は、私が代われないものばかりかもしれません。しかし、立ち止まって「あぁ、こういうものがあるのか」と見てみようと思いました。そして「まぁ、俺が持つならこうですね」と、シミュレーションするくらいは付き合っていきたいと思ったのです。その最初の一歩が、苗字でした。そして、それを私が変えることは、自分の恋人が自分で望まない役割を押し付けないこと、そして私も「自分がやってみたいことはやる」という意志表示でもあります。

 今の苗字に不満があるわけではないこと、婿養子でもないこと、そして、変更しなくてはいけないものがとても多いこと。そして、それを恋人が行う理由が「女性だから」であるのであれば私は納得いかないということを一つ一つ説明しました。

 話がひと段落すると、私はもう一度水を飲みました。どうあれ、言いたいことは言ったのでもういいかと、思っています。

「不便だな。ってことに気が付いてしまった。そして、それがなんだか自然な流れで恋人に行こうとしている。そこで、いちいち足が止まってしまう。それでなんだか考えちゃうんだ。その上『どうするか一緒に考えよう』って言ってしまう。『なんで?』って言われたけどね。私はそれをうまく見過ごせなかった」

 変える必要ないんじゃないの、なんて言われもしましたが、それを言ってしまえば私たちはそもそも恋人になる必要もなく、結婚する必要もないのです。無駄なことばっかしている中で、さらに無駄なことが増えただけです。

「戸籍上も夫婦別姓にできるなら、多分楽。今週から夫婦別姓でも良くなれば、多分私のこの問題は解決する。でもね、まぁ、別に制度を変えたいわけじゃないんだ。そうでなくても、大変なこといっぱいあるからね。だからその時は一緒に考えるよ、って決めたんだ。その最初がさ、苗字だっただけだよ」

 祖父母や両親は、一定の理解は示してくれたようでした。しかし、まぁそもそも不登校になったあたりから、分かり合うことが無理だということはおおよそわかっていたので「またよくわからんことを決めてそっちに行くらしい」ということは、わかったようでした。

 夫婦別姓なんて言いましたが、自分ではどうにもならない制度に文句を言っても仕方ありません。

 それに、何かを変えようと意気込んでいるわけではありません。

 こんなにたくさん手間をかけて苗字を変えようとしている私が望んでいるのは「変わらないこと」です。私から見れば恋人の「Kさん」は、これまでも、これからもずっとKさんです。私も都合上、今の苗字で呼ばれることがまだまだ続くでしょう。

 外から見る分には、私の周りにあるいろいろなものが変わって見えるかもしれません。でも、今「なんか変だし、何とかできそうな気がする」と気が付いたことを口に出さないまま先に進んだら、本当の意味で変わってしまったのは私のほうだと思うのです。過去を振り返って「あの時見ないふりをしたな」と思うのなら、それは自分が変わってしまったことを誰よりも突きつけてくるのだと思います。

 気が付いてしまったものは、仕方がありません、私はいちいちそういうものと向き合い、自分のできる範囲で何とかすることを自分が意識している以上に、すごく大切にしているようです。それが、友達であれ、恋人であれ、誰であれ、変わらずにそういたいと、私は思います。

 そして、この度、その自分で何とかしてみたいゾーンに「苗字」が新たに加わりました。

 と、いうわけで、来月から私は新たな苗字になります。しかし、キッチンタイマーはキッチンタイマーのままです。こちらは本当に何も変化はありません。

 今後とも、よろしくお願いいたします。

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