見出し画像

エンドレスエイトを抜けて。

不登校だったときの、自分の気持ちをうまく思い出すことができない。

中学時代の3年間を引きこもって過ごし、高校からなんとか学校に行けるようになった。学校に行かなくなった理由も、行けるようになった理由も思いあたる節はあるけれど、一つだけではない気がする。

そんな時期を乗り越えて、塾の先生をしている私だが、学校に行かなくなった日はいつしか遠い過去のものになり、不登校だった自分の気持ちが徐々に思い出せなくなっていることに最近になって気がついた。

不登校、というものがクローズアップされはじめ、私もなにかメッセージを届けようと思ったのだが、当時の自分に寄り添った文章がどうしても書けなかった。

今書いているタグ、「8月31日の夜に」を見て最初に思い出したのは「ニートは毎日が夏休みだけど、宿題抱えたままの8月31日が続く様なもの」というフレーズだった。Twitterで見かけたものだが、匿名掲示板の画像を貼ったものらしい。まとめ記事を見つけて、もとのリンクをタップしたが何度押してもツイートが取得できなかった。

不登校だったときは、アニメばかり見ていた。涼宮ハルヒの憂鬱を最初から最後まで一気に見たりしていた。その中にエンドレスエイトという物語がある。夏休みを、延々と繰り返すという物語だ。何度も何度も夏を繰り返す。そして、アニメでは実際にこのエンドレスエイトの回が、作画を変え、声も毎回取り直して複数回放送された。何度も何度も、他愛もない日常が「なにか忘れてる気がする」と思いながらも過ぎ去り、気がつけばまた最初からやり直しになっている。主人公は何度も何度も「なにか、なにか違う」という生ぬるい温度の焦りを抱えながらも、最後の一回まではなにもしない。見ている側からすると、その最後の一回がいつ来るのか全くわからない。ただ、ぬるい焦りとともに時間が過ぎていくのをじっと見ているだけである。

私は、それを無心で見ていた。一気に見ていたということもあるかもしれない。あとから、エンドレスエイト編のレビューをみて「うんざりした」とか「もうやめろ」とかそういうレビューが付いているのを見た。

「そうか、うんざりするのか」

他人事のようにそう思った。

ずっとループする物語を見て、私はなにを感じていたのか今はもう思い出せない。少なくとも、つまらなく感じていたわけではないはずだ。なにか引き付けられる部分があったから、ずっと無心で見ていられたのだと思う。

おそらく、本当におそらくだが、不登校だった頃の私にとって繰り返される8月31日は日常の出来事だったのかもしれない。一日、一日と過ぎていくのはあまりにも当たり前のことで、いつの間にかぬるい焦燥が近くにいるのも当たり前になっていた。終わらない宿題、手を付けていない宿題を片づける気はとっくに失せて、諦めと焦りの境目でパソコンに向かい続けていた。

主人公が、ループから抜け出すカギを見つけたときも私はなにもさしたる感動を覚えなかった。

「え、そんなこと?」

そう思った。そんなどうでもいいことで、ループから抜け出せるのだろうかと、疑問に思ったまま画面の中で無限に続いた夏休みは終わり、また次の日常が始まった。私は、それをまた無心で見ていた。

今の私は当たり前のように、2018年9月になった現在を生きている。ただ無心で過ごした永遠に続く8月31日のことが遠い昔のように感じる。本当は、宿題を抱えた8月31日なんて無かったのではないかと思う。それくらい、私は不登校だったときの自分から心の距離が離れてしまったのだ。

不登校の経験があったら、同じ痛みが分かる。というのは、きっと本当だと思う。ただ、きっとその痛みや傷は時間とともにどうしようもなく癒えてしまう。なにかの拍子に「えっ、そんなこと?」といわれてしまうくらい些細なことで、たまたま学校に行けるようになった私は、いつの間にか8月31日のループから抜けて、数年後の9月の今日へやってきた。

でも、最近私は、大切な自分を8月31日に置き去りにしてきてしまったのではないかと、感じるのだ。もう一度、会いたい。そう思うようになった。

しかし、当時を思い返せるものはなにもない。ずっと書いていたブログは消してしまったし、母と交換していたノートも、中学の卒業証書や教科書に至るまで私はすべて処分してしまった。たくさん苦しんで、喚いて、泣いて、でも、実は楽しいこともあって、笑って、そうして過ごした日々を書き留めたノートを捨ててしまったことだけは明確に覚えている。

私は、それをすごく後悔している。でも、すごく恥ずかしかったのだ。青臭くて、なにも見えていなくて、自分勝手で、死ぬほどひ弱でなにもできないのに「こんな風にドラマチックに助けてください」という救出方法お品書きをいくつも書き並べた自分が恥ずかしくて、私はそんな自分の叫びをすべて処分してしまった。

8月31日にまだ取り残されている私を覚えていた頃の私。今の私はループから抜け出した日をちゃんと覚えていないから、抜け出したばかりの私を9月1日の私としよう。

ねぇ、9月1日の私。8月31日にずっととどまっていた自分の叫びが、死ぬほど恥ずかしくなる私。本当にどうでもいいことで、たまたま学校に行けてしまった私。そのまま、当たり前のように9月2日を迎える私。秋になったら蚊に刺され、柿食って、いずれ雪を踏みしめながら学校に行く私。君を恨むよ。

君のせいで、過去の私に説教をすることができないじゃないか。「お前は大丈夫だ」って言ってあげることができないじゃないか。

私は不登校だった自分を、全否定して捨て去って今日まで来てしまった。

誰よりも助けてほしかった中学生の私。その理解者になれる自信が全くわいてこないのは、過去の自分の苦しみを全部「そんなこと」で片づけて捨て去ってしまえる自分がいることに気が付いてしまったからだ。同じ境遇の誰かに、声をかけてあげる勇気がないのはその時の私ならきっと自分の苦しみを「そんなこと」とナメて接してくる人をほぼ確実に見抜いていたからだ。

今日は9月9日。夏休みは過ぎ去ってしまうと、宿題と必死に格闘していたときの自分をすっかり忘れてしまう。8月31日の夜に、どんな私がいたのかを、私はもう覚えていない。

ならせめて、宿題は終えられたのか。そのくらいは教えてほしい。

ここまで読んでいただいてありがとうございました。 感想なども、お待ちしています。SNSでシェアしていただけると、大変嬉しいです。