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「参りました」と旗を振る。

初めて将棋の駒に触れたのは、小学生の時である。

そう書くとなんだか、これからめちゃくちゃ将棋が強い男の自伝が始まりそうな気もするが、将棋に関して言えば私はとにかく強くない。道場のレベルで言うなら2級と1級の間を行ったり来たりしている。どのくらいの強さなのかを将棋をしらない方に説明するのは難しい。あんまり強くないんだなぁ。と思っていただければ充分である。

小学生の時に駒に触れて以後、さして強くもならなかったが、ある程度は勝負を楽しめる水準までは来てしまったので、ダラダラと夜中にスマホのアプリやパソコンでオンライン対戦をしている。

将棋というのはやればやるほど自分はさして天才でもないということがよく分かる。思い違いや勘違いを繰り返しながら、ぎりぎりで負けたり、もう目も当てられないくらいひどい状態で負けたりしている。周りにいる人たちは、自分よりもずっとすごい人で、努力もしているし、才能もある。わざわざそんなところにアクセスして、大したことのない自分を見て、落ち込んだり、時に投げやりになりながら、それでもなぜか対局をする。

寝る前や、エッセイを書く合間に、対局を始めてしまう。エッセイと違って、将棋は勝敗がバチッと決まるし優劣もつくので、そのあたりが嬉しい。

勝敗が決まるまでの過程では、良い手と悪い手が存在し、読み通りに決まった良い手や、うっかりミスによって形勢が変わっていく。決着がつくまでの過程は、対局を終えたあとでも見ることができる。負けたなら、負けた理由を自分が納得するまで追いかけることができる。

しかし、エッセイはそうではない。例えば公募に出した時、審査の過程や、どの部分がヒットしたのかを見る機会はほとんど無い。なにがどう良かったのかを振り返る手がかりがほとんど残されないまま、結果だけが突然降ってくる。

先日、エッセイで賞を取った。秀作と特別賞、それぞれひとつずつもらった。ただ、気持ちはあまり、明るくならなかった。なぜ、この賞なのか。なにが、良かったのか、何が、良くなかったのか。何一つわからないまま、ポツンと賞だけが渡された。そんな気持ちだった。

選ばれたはずなのに、気持ちは沈んだ。それは、嬉しいことが起こったはずなのに喜べない自分に対する失望も含んだトータルな自分の気持だった。

私以上に才能があって私以上に努力している人達のなかで、私はあくまで凡人の1人。将棋もエッセイも、ステージに上がるたびにそんな気持ちになる。

上達する手がかりも掴めないまま、日々才能のある人達に囲まれている。身を投げるように、その世界に飛び込むと私は何ら特別ではないただ一人の人になる。そんな世界の中で熱中するときもあるし、迂闊という他ないくらいに気を抜いてしまうこともある。

将棋に限って言うなら、一度だけいい手を選ぶことは実は素人でも案外できる。しかし、いい手を選び続けるのは、プロの為せる技だ。いい手と油断した手を交互に指していてはいつまでも勝てない。それはエッセイにも通じる部分がある。

「この人、うまいなぁ」

と、画面越しに1人でつぶやく。それは、相手が指した絶妙な一手を目にしたときでもあるし、エッセイコンテストで大賞をとったエッセイを読んでいるときでもある。「うまいなぁ、うまいなぁ」と繰り返してしまうほど、私の想像を超えた世界を見せつけられる。

そんな世界に日々アクセスして、なんでもない一人の私は「あー、うまいなぁ」と今日もボソボソ、面と向かって言う勇気もないままに画面の向こうの相手に向かって白旗をあげた。

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今回のテーマ「将棋」

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