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「それ、なぁに?」と聞かれたい

スケッチブックを持ち歩いている。

高校時代、ノートとしてデカい紙を持ち歩きたくなった。それは遅れてきた中二病のようなもので、他の人と違うことをしているのがかっこいいと思っていた部分が大きい。

そのかっこいい自分を引きずったまま、今日まで定着してしまった。スケッチブックサイズの紙にメモをしたり、形にならないアイデアを書きまくったりしていかにも仕事できる人っぽく振る舞うのがすごく楽しい。その上、その大きさやカラフルなペンを使ってひたすら描くというのが、私の性質にバッチリ合っていた。スケッチブックに向かい合ってペンを振るうと、数時間の間一つのことを考えていられることがわかった。そういうわけで、何かにつけてスケッチブックを広げては、好きなことを書き込んでいる。

しかし、書いても書いても、私の中に貯まっている気がしない時がある。勉強をするために書いたノートほど、覚えていられる気がしない。むしろ、考えるときに使う一時的なメモばかりだ。結論を出すまでの過程を頭の中でできないので、計算の途中式を書くみたいに、書いたそばから使い捨てになる情報ばかりになってしまう。

書き終わってみればわかりきったことしか残らず、うっすら失望してしまうこともある。私はこんな大きなスケッチブックを広げてやっと普通に考えたり、人の話を聞いたりできるのではないかと思えてくる。あとに何も残らないときなどは、それ以下なのかもしれない。

大学で取ったノートの内容も、今ではほとんど思い出せない。散々やった分析の仕方とか、用語とか、そういった情報を思い出そうとしても全く出てこない。勉強したはずなのに、引き出せないのはなんだか時間をうまく使えていないようで自信がなくなる。

悩み事をスケッチブックに一通り書き終えたあと「これは何を考えて、どんな結論を出したかったんだっけ」と思い出せずに、また新たなページを使って同じことを考えるときもある。書いても書いても結論が出ず、苛立つこともある。

相談に乗ってくれる人がいれば、それですべて終わるのではないか。言葉にして説明すればすぐに片付く問題を、わざわざややこしくして結論から遠ざかっているのではないか。

スケッチブックに気持ちをぶつけ続けても、収まらないことがある。たくさんの疑問、たくさんの持論、たくさんの不安。誰かにそれを伝えたくて、でも、誰にどう伝えればいいのかわからなくて、ひたすら紙に書きなぐる。下手くそで、伝わらない絵、わざと伝わらないように描いた絵。

「それ、なぁに?」

絵は、そう聞かれるシチュエーションを欲しているように見えた。見つけてほしい、聞いてほしい、私に興味を向けてほしい。伝えたいという気持ちの反面、スケッチブックに欠かれたメモは一度疑問を持つようにデザインされている。

等身大の自分を書くのは、本当に難しい。等身大の自分を書き続けるのは、もっともっと難しい。無地のページに描かれる絵は、私の頭の中にあるイメージを欲望ごと書き出してくれる。

だから、書き終えたものを見れば

「あぁ、これは良いかっこしようとしてるな」とか

「あ、これ普通に何も考えずに書いたな」とか

「これすげぇ楽しんでるな」とか

自分の心がどんな様子だったのかが、少し見える。でも、全くなんのことだか思い出せないものもある。そういうページが一番不安だ。

とにかく記憶力が軟弱なので、エッセイを書いていても「あれ、これ前書いたんじゃねぇか?」みたいなことも時々ある。軟弱なくせに、忘れたいことはあんまり忘れられなかったりする。

スケッチブックに描かれた、雑多な絵やイラスト混じりのメモ書き、効率化を極めた結果複雑になってしまった出来の悪いプログラムのように見える。

ただ、今まで試した他のどの勉強法よりも、楽しく、また苛立つ。感情が音を立てて揺れ動くので、疲弊しながら、また、結果が出るのか全く根拠が無い中で白いページに向かい合ってしまう。もう少しだけ、もうちょっとでも長く、根拠なく真っ白なページと向かい合う勇気が続くといい。

スケッチブックに描いた結果がどうなるかはわからないけれど、向かい合う瞬間は露頭に迷った自分しかいない。

バン、と広がる白い紙の前で、オロオロしながらとりあえず、ペンを持って進む。

エッセイとはまた違った恐怖が、私の背中を押す。

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今回のテーマ「スケッチブック」

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