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塩パンを狂って貪る昼休み

お昼休み、近くのスーパーの手作りパンコーナーでパンを買う。甘いパンと惣菜パンを、その日の気分で選んで決めている。3月は桜パンという、桜あんを包んだパンなどがあり私はそれが好きだった。エクレアも好きだしでかいクリームパンも好きだ。

いくつかパンが並んでいるが、だいたい味のついたパンを買う。ソーセージの乗ったパン、チーズパン、ピロシキ。コロッケパンも美味しかった。私は中学生が部活帰りに買いそうなパンをトレイに載せてレジに向かう。

レギュラーメンバーはソーセージの乗ったホットドッグ。クロワッサンや塩パンなど選択肢には入っていない。甘くもないし、肉も乗っていない上、チーズもないパンには全く魅力を感じなかった。

塩パンを食べてみようと思ったのはほんの気まぐれである。毎月一度、苦手なものに挑戦してみる、というルールを決めて数年。少しずつ苦手なものの減ってきた私は、今回「別に苦手じゃないけど手を付けなかったもの」を食べてみることにした。それが塩パンだったというだけだ。

エクレアとコロッケパンの横に置かれた塩パンは、さながら補欠であった。苦手ではないが、一番最初に食べてしまおう。コロッケパンを食べて、その後にエクレアを食べよう。そんな算段である。

しかし、塩パンはうまかった。肉もチーズも乗っていないし、菓子パンにしてもチョコレートもクリームもないのに、塩パンはとても美味しいものだった。私は一気に塩パンを食べきり、ちょっとした敗北感に襲われていた。

それは、上司の言葉である。

「最近歳のせいか、少し薄味くらいが美味く感じるようになった」

好きなものの変化に、年齢を感じる。少し前まで、コーヒーが飲めるようになったならもう大人。みたいな気持ちだったのに、今はちょっと薄味のものが好きになると老化……? などと疑いたくなる。素朴な味、シンプルな味、旨味。などというものが体に沁みるようになってくると「……大人に、なってしまったのか、パンチのある味よりも、塩パンの美味しさに……目覚めてしまったのか」と、なんだか勢いのある味に対する抵抗を感じる。

翌日、クロワッサンを買った。私の中では塩パンと同水準でクリームもチョコも無いパンの代表格である。……美味しかった。バターがたっぷり使われているのだろう。そして、その美味しさに心打たれた私は、変わってしまった自分を直視したような複雑な気持ちも一緒に抱えた。

鏡をふと見て、シワが増えているのを感じるような。少し走っただけで、息切れしてゴールが遠ざかっていくように感じるような。まだ微かに、本で読んだ月並みな表現でしか言い表せない歳を取る感覚が、背後に迫ってきたように感じた。

昔は味のない食パンやバターロールが嫌いだった。レーズンロールが好きで、なんならレーズンだけつまんで食べて怒られていた。わかりやすい甘さもしょっぱさも無いパンよりも、味のついたパンのほうが絶対に美味しい。そう思っていた私は、もう居ないのだ。

そして今日も塩パンを買う。私は気に入ったものは飽きるまで買い続ける。

つい先週までは狂ったようにスイートブールを食べていた。しかし、今週はすでに塩パンの魔の手に染まりつつある。

あぁ、変わりゆく私。よくよく考えれば、好きなものは飽きるまで食べ続けるということは、飽きた時点で「これはもういいかな」と言う気持ちになっているのだから、そんなに悲観しなくても味覚はともかく興味の対象はコロコロ変わっているような気がする。

それにエクレアや、コロッケパンが苦手になったわけではない。次もし気が向いたら、バターロールやレーズンロールをもう一度食べてみようと思う。

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