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(この話、前もしたかな)

上司さんに声をかけられた。

仕事の引き継ぎだ。昨日の件の報告らしい。

「で、昨日は……」

はい、と頷きながら聞く。しかし、聞いているうちにふと思う。

(これ、今朝聞いたな)

さっきも同じ順番で、同じ話を上司さんはしている。しかし、話を遮るのはポリシーに反するので、あくまで聞きの姿勢を保つ。話もいよいよ終わりというとき上司さんの目がカッと見開かれ、話が止まった。

「……これ、俺さっき言うた?」

どう答えるか迷ったが、素直が一番である。

「はい」

上司さんは、やってしまったと言わんばかりに頭を抱えた。

「あかんわー、これはあかん。喋ったこと忘れとるわ」

「次は『これ絶対知らんと思うんやけど』って言ってから始めてもらっていいですか」

「絶対イヤや」

ということが先日あった。

人は忘れる、そして同じ話を何度もする。この本は前にも読んだ、ということに途中で気がつくこともある。報告であれば、漏れるよりは何度もしてもらうほうがいい。しかし、飲み会や雑談ではおんなじ話を何度も聞くことがある。そして、聞いている方は何も言わない。私も多くの場合何も言ってこなかった。

上司さんが頭を抱えたのもよく分かる。私もこの「何度も同じ話をしてるんじゃねぇか」と言うヒヤッとした気持ちは時々感じるのだ。何度も同じ話をするし、何度も同じ間違いをする。そして、それが続くとだんだん指摘されなくなっていく。なんと恐ろしいことか。

これがエッセイの話になると、ネタかぶりである。同じテーマで何度も書くといえば聞こえは多少マシになるが、全く同じ話で全く同じオチのものを、同じサイトに掲載するようになろうものなら恐ろしい限りだ。

「えっ、この話前も聞きましたけど」と言われるのが怖いし、言われなくても思われているのが怖い。そして何より、それに気がついていないというのが厄介極まりないのである。

前聞いたわこれ、といううんざり感。そしてそれは、以前その話を聞いたというリアクションがそんなに印象に残らなかったということであり、コミュニケーションが成立していなかったかのような無力感がある。

もしこれが、お互いに「これは何回も話した話」という認識で聞くのであれば、少しは気楽になる。まず聞き手としては、初めて聞きましたという演技のリアクションを取らなくて済む。これは楽だ。話が面白ければなお良い。

同じ話を何回もされることよりも、2回目であることを悟られないようにリアクションする方が私はしんどいのである。



ところで最近、Youtubeでお笑いを見ることが増えた。サンドイッチマンとか、博多華丸・大吉とか、四千頭身とか、そういう漫才をよく見ている。小学生くらいの頃は小島よしおとか、オリエンタルラジオが好きで、新しいネタを見るたびに喜んだ。一方、他の番組で見たネタだったりすると「もうこれ知ってるよ」と俄然興味がなくなった。しかし、23歳になった私は同じネタを何度も繰り返し見るようになった。構成も、オチも、全部わかっているのにもう一回見てしまう。

小学生の私が見たら、こいつはいよいよ昨日見た動画も忘れてしまったのかと呆れ果ててしまうかもしれない。でも、忘れたわけではないのだ。同じネタだが、披露する場所によって微妙に構成が違う。

いつしか私の見るお笑いは、新しいネタを披露するものではなく、何度もやったネタがその場の都合に合わせられたバージョンが多くなった。持ち時間や、緊張の度合い、新ネタか定番のネタか。同じネタでもうんざり感は無い。私は彼らが何度も同じネタをやっていることを知っているし、彼らも客がネタを何度も見たであろうことを知っている。

新しい、以上の魅力があるか。もう聞いたとしても、もう一回話せるか。そんなハードルを抱えたら、恋人の話も不登校の話も職場の話だってしにくくなってくる。新しい発見や、2度読んでも面白いというほどの魅力がある文章が書けるだろうか。

もしくはせめて「これは何度でも言いたいんだけど」と、強い心を持って宣言していくような気構えが必要なのかもしれない。

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