忘れられない言葉の話をしよう


毎週日曜22:30から放送されているドラマ「3年A組」を欠かさず見ている。この作品には、「バカッター」と呼ばれてしまうような種類の、一部の若者たちに向けてつくられているとしか思えないようなエピソードがみちみちに詰まっている。

インターネットの正しい使い方を教えてくれる身近な大人がいないから、きっと、こういったメディア作品を通して若者たちは画面の向こうと現実世界を一致させていくんだろう。

物語は、とある女生徒が自殺してしまった理由を様々な方法で解き明かしながら進んでいく。その過程で明らかにされるのは、「根拠もいわれもない女生徒への罵詈雑言」「ドーピング疑惑をでっち上げられたフェイク動画」がなんの枷もなく放流されたSNSの実態。

見ていると、言葉以上に強いものはないような気がしてくる。良い言葉も悪い言葉も、どんな意図で発したのかわからない言葉も、ふとした瞬間に口から飛び出た何気ない言葉も、すべて、何よりも強い、人類の武器だ。

だからこそ、人をどこまでも追い詰めて傷つける。

これまで、ずっとずっと忘れようと努力したけれど拭い去れない言葉の話をあえて、しようと思う。

「もっと、明るくね!」

これは、たしか高校の卒業式に卒業アルバムの寄せ書きコーナーに書かれた同級生男子の一言だ。「明るくね」この一言が、アラサーとなった今でも忘れられないほど心の奥底に突き刺さってしまって、抜く方法がわからないでいる。

きっとこの言葉に悪意はない。根が暗い私のことを心配してか、もっと明るくしたほうがいいよ~~とアドバイスのつもりで書いてくれた言葉であろう。そして、たぶん人を傷つける言葉の8割には悪意がない。何気ない言葉が、ぽろっと出た本音が、最も人の心を抉る。何年も何年も思い出してはドロドロした気持ちを生成する火種に変化する。彼は、きっと、私を励まそうとしてくれただけなのに。

今となってはこの言葉がなぜこうも私を傷つけたのか、明確に理由を言語化できない。明るいつもりで生きていたのに、根暗な本性を見透かされてショックだったのか。その男子の事が好きだったからか。明るい人間ばかりが持て囃される時代の風潮に嫌気がさしていたのか。

わからないけれど、私はこの言葉が忘れられない。

そして、そっと思い起こしてはどんよりとした気持ちになり、同時に、私は私の内から発せられる言葉に全責任を背負うんだ、そのつもりで顔も出してるし名前も晒してるんだこっちは、と謎のハッパをかけて眠る。

表現をする人間は、いや、表現しない人間だからこそ、自分が言ったり書いたり打ったりする言葉には責任を持ってほしい。匿名という皮をかぶって好き放題言う時代、滅せよ、そんな時代なんて終わってしまえ、そんなことなら、言いたいことも言えないこんな世の中のままでいい。言っちゃいけないこととそうじゃないことの区別もつかない子どもは、どんな教育を受けて世に放たれているのか。彼らは悪じゃない。悪いことを悪いことと知らないままツールを得てしまえる世界が悪いのだ。

言葉の重要性をもっと。強さをもっと。いかに威力のあるものなのか、その危険性をもっと、もっと、もっと。

あなたは今、何を言おうとしていますか。

あなたは今、何を書こうとしていますか。

どうか、発せられた先にいるリアルな人間の顔と感情を思い浮かべながら、言葉を紡いでください。言葉を最終兵器にしないように。



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