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ひとの願いは宝物だ


人の願いをきくのがすきだ。

鎌倉に住んでいたころ、近所の鶴岡八幡宮へヒマを見計らって通っては、ひとのしたためた絵馬を眺めてエネルギーをもらっていた。いま考えてみると、鶴岡八幡宮が近所にある環境って貴重だったなあ。

願い、祈り、想い、気持ち、夢、目標、ゴール。

よくこういった言葉には「重い」「軽い」という形容詞がついたりするけれど、ひとの願いや祈りに軽いも重いもないとわたしはおもっている。

どれも尊くて、たいせつで、触れるのさえためらわれるほどの、宝物だ。

自分のなかに願いが生まれたら、そっとそっと大事にするべきだとおもう。こわれてしまわないように、うっかりなくしたり、忘れたりしてしまわないように。

つくろうと思ってもつくれるものでは決してなく、それらは、大体が自然発生的にいつの間にか爆誕しているものなので、余計に取扱い注意。

ひとの願いは尊く、眺めているだけで力をもらえるけれど、反面、「じゃあ、わたしの願いはなんだろう?」と考えると、とたんにへたってしまう。

本を出したい。
雑誌の編集をしてみたい。

口ではそう言っているけれど、実際にはクラウドソーシングでほそぼそと稼いでいるフリーライターでしかなく、具体的に行動に繋げているわけでもない。

「迷っている人間」というタイトルの絵画があったとしたら、そこには、どこまでも途方に暮れたわたしが画面の中央でぼうっとしていることだろう。

ここまで書いておいてなんだけれど、ひとの願いは尊いのと同じように、ひとの迷いや、その迷っている姿そのものも尊いよなあと思ったりする。

今日はとくに思考の流れにとりとめがない。窓の向こうではひたすらに雨が振り続けているせいか、眠りすぎてしまったせいか、同じところをぐるぐるぐるとたどり続けている頭の動きに酔ってしまいそうだ。

誰かに誘われるのを待っている夜は、こんな感じなのかもしれない。


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