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嘘と意志

*昨年8月22日放送のYouTube「キツネラジオ」を文字起こししたものです。写真はイメージで、本文とは関係ありません。


中尾:
突然ですが、澁澤さんはうそをついたことはありますか?
 
澁澤:
ないと言ったら「嘘つき」になります(笑)
 
中尾:
そうですね(笑)
自分で意識をして「嘘をつこう」と思ってついたのはいくつく
らいですか?
 
澁澤:
はっきり覚えているのは、小学校低学年の頃食が細くて、当時はクラスで背が低い方から並ばされますよね。そうするとだいたい前から2番目か3番目だったんです。それで母親は何とか強く立派な体になってほしいと思ったんだと思いますが、一生懸命私にいろんなものを食べさせて大きくしようとしました。なので、中学になってお弁当になると、一生懸命お弁当を作ってくれたんですが、食べられないわけです。だけど必ず「お弁当は食べたの?」と聞かれて、お弁当箱がちゃんと空になっているかチェックをされるんです。で
すから学校から帰る途中の畑の中にお弁当の中身を埋めて、美味しかったよ、全部食べたよと言うのがほぼ常態化していました。ところがその頃はうちの犬も放し飼いでしたから、あいつがそれを見つけてくるんです。そうすると、なんでうちの犬がこんなものをくわえているのかしら?見覚えがあるわね、このトンカツ…という話になるわけです。それで、母親は烈火のごとく怒り、押し入れに閉じ込められ…という状況になる。
 
中尾:
嘘ついて食べなかったわね!ってことですよね。
 
澁澤:
食べないことは許せるけど、嘘ついたことは許せないわって話にどんどん論理が展開していくわけです。
 
中尾:
なるほど。許せる嘘ってどんなとこまででしょうね。
 
澁澤:
相手のことを思っているかということです。それしかないですね。ただ、その相手のことを思うということもそれが正解かどうかもわからないですよね。
 
中尾:
こちらの判断ですもんね。相手のことを思うのもね。
 
澁澤:
そう。年を取ると、その辺、両方のことがわかってくるので、逆にそういう場面が少なくなったかもしれませんね。
 
中尾:
そうですね。年を取ってから、敢えてうそをつくということはなくなりましたね。
 
澁澤:
若い頃は、こっちの方が二人の間もうまくいくだろうとか、この場もうまくいくだろうというような形で、なんか小智才覚でうそをついていたということはよくありましたね。
 
中尾:
私、結構嘘をついてきたんですよ。でもその嘘は、親に心配をかけないため、嘘をついて泊まってきたりするけど、それは全部自分で責任を取りますよという意味で、自分に言い聞かせる嘘でもあるんですけど、それがね、最近若い人に話を聞くと、嘘をついたことがないっていうんですよ。びっくりしちゃって、一回も?って聞くと、「一回も」っていうんです。例えば、何か一人で決断しなきゃいけない時に、親がそれを反対するということが起きた時はどうするの?嘘をついてでも自分のやりたいことをやるとか、そういうことにはならないの?って聞いたらば、とことん親と話し合って良い方向を見つけると。
 
澁澤:
学校でそういう風に教えていますから。
 
中尾:
そうなの?
 
澁澤:
とことん話し合いましょうと。そうしないと戦争が起きますよと。とことん話し合って、分かり合えないことはないですからと。
 
中尾:
はあ~。でも、昔は背中を見て感じろと言われませんでしたか?
 
澁澤:
そうです。その通りです。
 
中尾:
そうですよね。それで、自分で判断して、自分で決めるんですよね?それが今では話し合わなきゃいけなくなったんだ…
 
澁澤:
はい。日本以外の国では公用語が必ずしも英語ではないわけですよ。アメリカ合衆国にしたってスペイン語しかしゃべらない人もいるし、東洋系の人たちやアフリカ系で全然英語がしゃべられない人もたくさんいる。そんな中で、一つの国の中で暮らしていると、英語というちゃんとしたツールを使って議論をできない人間は正規の国民と見ませんよと、そこでフィルターをかけてくるのです。
 
中尾:
だけど、国際社会って嘘だらけですよね。
 
澁澤:そうなんです。だから逆に言葉だけでやっていくとその弊害も同時に出てくるわけです。言葉だったらいくらでも美しく変えられますから。
 
中尾:
話を戻しますけど、じゃあ自分で決めないで、親と話し合って、いいか悪いか別として結果が出たとして、親と決めたことって、自分の責任がどこかに行ってしまいませんか?
 
澁澤:
感情の部分が抜けていく。感情だけじゃなくて雰囲気だとか、もっともっと五感全部で捉えていた部分が抜け落ちて言葉だけで親とのコミュニケーションになっていきますから、山極寿一さんがね、類人猿の中でゴリラと人間だけが共感を持てる生き物なのに、今の日本人はどんどんゴリラではなく、その前のチンパンジーでもなく、もっと原始的なニホンザルに近づいていくと。指示待ち人間ってよく言いますよね。これをやれと与えられたり、あるいはこれがいいことだと与えられないとその中で一生懸命になれない、与えられればその中で一生懸命になると、世の中全体的にそういう風になっているんじゃないかという感じはします。
 
中尾:
そうすると、視野が狭くなりませんか?
 
澁澤:
視野が狭くなるし、とても危険になります。上の人が戦争しなければいけないと言うと、また戦争をするようになるかもしれない。
 
中尾:
私の物差しで申し訳ないけど、中学生くらいになったら、その頃には自分で判断するというか、話し合うの大事だけどそれはまた別の話で、自分の価値観をちゃんと持つということが必要なんじゃないかなと思いますけど。
 
澁澤:
まあ、話し合うのは一種の方便で、話し合いだけが全ての解決ではないし、トライしてそれに対して責任を負う、そのリスクから逃げない心持を作って行くってということも、とても重要かもしれないんですよ。
 
中尾:
逆に言うと、私はあまり話し合いをしてこなかったかもしれない。ディベートというか、言葉を戦わせるというのとはちょっと違うかもしれないけど、議論するということに私の年代はあまり慣れていない気がします。そう考えると、その子たちはすごく議論できるんだと思うんです。それはそれで素晴
らしいことなんですけど、一般論は議論できても、自分のことになると決められないという矛盾ができてくるような気がします。
 
澁澤:
言葉の世界だけで生きてくると、例えば今回のように集中豪雨が来て地域社会が災害に遭ったり、あるいは3.11などの大地震とか生存の基盤を脅かすことが起こって、みんなが協力し合わないと生きていけないという状態になった時に、言葉だけでしかコミュニケーションが取れない社会はものすごく弱
いです。
 
中尾:
それとね、大人に多いのですけど、優しい言葉できれいに会話するという、本心をなかなか言わない人が多いと思うのです。もっと本音で話そうよって思うんですけど、それができる人が減った気がします。それは何か原因がありますか?
 
澁澤:
一つは傷つけ、傷つけられるということを恐れているのかもしれません。自分が何か言ったことによって。
 
中尾:
人間として弱くなったってこと?
 
澁澤:
それだけじゃなくて、社会がぎすぎすし始めたのかもしれませんね。それは客観的にいえば、人間として弱くなったのかもしれませんけど、傷つけられることをとても恐れます。だからなるべく自分は殻をかぶっていたい。コロナが終わってもマスクは外したくない。きれいごとだけで何となく会話を済ませたい、それから本心は表に出さなきゃいけないことはなるべく避けたいと思ている人たちは多くなりました。
聞き書き甲子園にに参加する学生も20数年見てきましたけど、明らかに個で自立する強さを持った子は少なくなりました。
一方で環境問題を真剣に考えていて、今のままの価値観ではだめなんだ、経済だけの価値観ではだめなんだと思う子は増えてきました。
その辺がうまくいかないもんだなあとは、私はみています。そういう価値観が増えて来て、尚且つ自分でリスクを恐れずに行動できる人たちが多くなってくるとたぶん社会は大きく変わってくるんだろうと思うのです。
 
中尾:
今変わっている時ですもんね。
 
澁澤:
だけど、じゃあ自分からなんか行動を起こそうという子はものすごく少ないのです。
 
中尾:
うーん、これはもう、大人が行動を示すしかないですか?
 
澁澤:
大人も行動を示す。気づいた人から行動する。現にグレタさんはいろいろな批判はありますけど、行動で示したわけです。
 
中尾:
ものすごく勇気がいるんですよね。その勇気をわかってあげてほしいですね。
 
澁澤:
勇気をそれぞれ、グレタさんだけでなくて、行動をするということの勇気をみんなが認め合える社会になると良いなと思うし、していかなければいけません。
 
中尾:
なんか、ここのところ嘆く話が多いですね。
 
澁澤:
年をとってきたということですね。
 
中尾:
ほんとうに… 改めないといけませんね。

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