aiの話

宇多田ヒカルのあなたを延々と聴いてる。
宇多田ヒカルは保育園の時から永遠に聴いていられるし、いろんな情緒を教えてくれる。

この曲は"愛"とは一言も言わないけど、言葉にならないaiという韻はたくさん踏む。
あなたとも11回言う。
あなたへのaiを考えてるだけで、胸に穴があきそうになる。

また愛について考える。
多分一生考えるし結論はそのときによって違うから、今回は平成最後の夏の結論。
さまざまな時間によって変化する、愛の形について考えることは楽しい。

色々な人に出会ううち、
愛は目に見えるカタチで表現し伝える事ができるが、好きは感じることしかできないのかもと思った。

好きは感じることしかできないから、"好き"を体から出した途端全て一種の愛の表現として可視化され、勝手に評価されるのだと思う。
それが愛だったり、見せかけだったり、嘘だったり。色々なカタチで受け手は評価する。

好きを体の外に探すことは、もしかしたら無駄なのかもしれない。探した時間で得た経験は、無駄じゃないと思うこともできるだろうけど。

"好き"を表出したとき、愛であると受け取ってもらうための根拠となるものが、過ごした時間や共有した価値観、共通の結論なのかなぁ。

受け手は、口から溢れる言葉にも、触り方や目線の動きひとつにも、いちいち付加価値をつけることができる。

真意はどうであれ、自己が認識できる範囲でしか"好き"を測ることができないのなら、なんて不確定要素まみれの感情なのか。

それでもその感情がこみ上げる瞬間を知りたいと思う。



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