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熊ちゃん、お疲れ様でした

ということで10月末、私が中央競馬のジョッキーの中でいちばん好きだった熊沢重文騎手が引退を発表され、11月11日に無事引退式が行われました。
熊沢騎手、私は熊ちゃんと呼んでましたが、彼は私が語るまでもなく、現在ほぼ分業的になっている平地競走と障害競走の二刀流で通算1000勝以上を挙げた、記録にも記憶にも残る騎手人生を送られた方です。
とは言え私が彼を見てきたのは1996〜1999年と、2005年の阪神JF、そして2021年からという体たらくで、ダイユウサクもコスモドリームもマーベラスカイザーも通ってきてないし、私には騎乗技術とかについての知識も全くないのでただの思い出語りになりますが、お付き合いいただければ幸いです。

私がそもそも競馬を始めたきっかけもよく覚えてはいないのですが、1996年頃になんとなく始めて、最初に好きになった騎手は田原成貴さんでした。ちょうどマヤノトップガンの頃ですね。華があってスマートで、何をしても絵になるそんな田原さんに熱を上げる一方で、何となく気になってたのが熊ちゃんでした。
ある意味田原さんとは対極の泥臭さというか、一生懸命に力強く馬を追う熊ちゃんに惹かれて、次第に競馬ブックで騎乗予定を調べて、また翌週の競馬ブックで結果に一喜一憂する、気がつけばそんな競馬ライフを送っていました。
当時はスマートフォンなんてなかったのですが私の住む街ではフジテレビ系列の日曜15時からの中継に加えて土曜日15時からの中継もあり、また夜中には「中央競馬ハイライト」というその日のレースのダイジェストをまとめた番組もありました。
世はまだ競馬ブームの中にあり、割とそういうメディアには恵まれていたと思います。そうそう、競馬雑誌も今と比べ物にならないくらい出てましたね。田原さん贔屓の私は当然『月刊競馬塾』を毎月買っていました。この雑誌は割といろんな騎手を取り上げていて、確か熊ちゃんについての記事もあったと思います。関西リーディング上位なのに何故障害を飛び続けるのか?といった内容だったかと。内容は失念してしまいましたが、とにかくそこで意欲的に障害レースにも挑戦する熊ちゃんの姿勢を知ってますます好きになったような記憶があります。

熊ちゃんと田原さん、この二人が乗った両馬が熱く火花を散らしたレースがありました。そう、1996年のスプリンターズステークス、「わずか1cmの死闘」で知られるあのレースです。

 ゲートが開くと、ヒシアケボノが出負けして後退。一方、逃げて主導権を握ろうとエイシンワシントンが抜群のスタートを切って先手を確保すると、その後ろにフラワーパークがマークする形で外から2番手、ビコーペガサスは内の5番手あたりから追走する。

 エイシンワシントンが1馬身程度のリードを保ったまま3コーナーに入ると、中団でアクシデントが起こる。内を追走していたニホンピロスタディに故障発生。真後ろにいたビコーベガサスは的場均騎手が必死に回避するも、あおりを受けて後方へ下がり、レースから脱落してしまう。

 そのまま4コーナーから直線へ。前半33.5秒で飛ばしたエイシンワシントンの脚色は衰えず半馬身差をつけて先頭のまま。フラワーパークはわずかずつ差を縮めていくが、まだ届かない。残り1ハロン、熊沢重文騎手は右ムチを炸裂させてエイシンワシントンを追う。そこへ、1完歩ごとに差を縮めていくフラワーパーク。

 両者一步も譲らない先に並びかけたところがゴールだった。頭の上げ下げという勝負で、ファンもどちらが勝ったのかまったくわからない。そして、長い長い写真判定。12分に及んだ結果はフラワーパークに軍配が上がる。

 その着差、わずか1cmという死闘であった。

GJ「JRAスプリンターズS(G1)「写真判定12分」着差わずか1cmの死闘! 譲れない戦いを制し、史上初の春秋スプリント王が誕生した96年」

このレース、馬券を買ってたかどうかも忘れてしまったのですが、テレビの前で息を詰めてこの決着の行方を見守っていた覚えがあります。ハナ差でエイシンワシントンが負け、それを知ったのは番組も終わる頃だったかと。後にGallop年鑑で「同着であって欲しかった」みたいなことが書かれているのを見ましたが、私の思いもまさにその通りでした。

そして翌年の2月。
この年、初のダートG1として開催されたフェブラリーステークス。このレースの1番人気に押されたのは、熊ちゃんが鞍上で4連勝中のストーンステッパー。私はこのレースを楽しみにテレビの前に陣取りました。このレース、ストーンステッパーで熊ちゃんがG1を取るところが見られるんじゃないかと確信して。
この日の東京競馬場は不良馬場、まるで田んぼのように水が浮いたダートの上を各馬が走っていきます。コーナーを回り、直線あと200mのところで先頭に立ったストーンステッパー、このままいけば勝てる……!そう思いながらこぶしを握ったその時です。

 バトルラインとストーンステッパーの攻防は、次々に外から捲って行く形。誰もが外の攻防に目を奪われるうち、内をスルスルと伸びてきたのがシンコウウインディだ。

 まさに鞍上・岡部幸雄の職人芸。道中はストーンステッパーの直後。レース後に「泥を少々かぶっても平気な前向きな馬だが、前の馬の直後につけると泥をかぶりにくくなるから」との説明。馬も顔に泥が飛んでくるとひるむが、前を走る馬の直後なら顔には飛んでこない。水の浮くような泥んこ馬場への対応もお手の物だったマイスター岡部によりスムーズな追走。かつ岡部シンコウウインディはストーンステッパーが仕掛けた時には付き合わず、ひと呼吸置いて進路を内へ。アイオーユーを軽くパスすると、ストーンステッパーの内をすくって伸び勝った。

スポニチアネックス「【追憶のフェブラリーS】泥んこ馬場の97年 “職人芸”がシンコウウインディ導いた」より

二頭の叩き合いはシンコウウィンディが首一つ抜け出して先着、という形で決着しました。祈るように見つめていましたが、熊ちゃんは去年のエイシンワシントンに続きG1でまた二着。私が願ったG1勝利はまたお預けとなりました。

ところでその前日の1997年2月15日、熊ちゃんは京都の未勝利戦で一頭の馬を初勝利に導いています。そう、言わずと知れたあの名馬、ステイゴールドです。
ステイゴールドと熊ちゃんのコンビを私はその後追っかけ、その戦績にある時は喜び、ある時はやきもきするのですが、未だに忘れられないレースがあります。

それは1998年、7月12日のことでした。
その二日前、私は人生最大の失敗を犯し、自分のことが決定的に大嫌いになりました。行き場のない絶望と悲しみ、苛立ちと慟哭の二日間を過ごした後、こんな時でも競馬をしたくなる自分に半ば呆れながら、一枚の馬券を買いました。

競走馬でいちばん好きだったサイレンススズカと、熊ちゃんの駆るステイゴールドの馬連。

ゲートが開き、大方の期待と予想通り、1番人気のサイレンススズカが気持ち良さそうに逃げていきます。9番人気のステイゴールドは中団あたりにつけていました。
先頭のサイレンススズカは3コーナーを回り、後続に10馬身くらいの差をつけています。観衆がどよめく中を、相変わらず軽快に飛ばすサイレンススズカ。後続集団の中ではステイゴールドが早めに上がっていきます。

(もしかしたら……これは……!)

芽生えた期待を胸に、両手を握ってテレビを見つめます。直線、ステイゴールドは3番手あたり、サイレンススズカに迫ってきますが、差は詰まりそうで詰まりません。そして後ろからエアグルーヴが飛んできますが、ゴール前私はもう確信していました。

サイレンススズカ、1着。2着、ステイゴールド。

「あはははははは……!」

死にたくなるような状況で買った馬券が当たったこと、しかも当時いちばん好きな馬と、いちばん好きな騎手が乗った馬のワンツーフィニッシュ。気が狂ったようにテレビの前で笑い続けたことを思い出すたびに、目に涙が滲むのです。それはサイレンススズカの、生涯唯一のG1勝利でもありましたから。

その後もG1、いや重賞のたびにステイゴールドと熊ちゃんの勝利を願って応援し続けました。しかし当時自分を追い込むような生き方を選択していた私は、1999年の秋頃を最後に競馬から足が遠ざかってしまいました。そしていつしか、熊ちゃんが鞍上から下ろされ、他の騎手に乗り替わってステイゴールドはやっと重賞を勝てたと聞いた時には、テレビで競馬を見ることもなくなり、「熊ちゃんがG1で勝つところを見たい」という夢も埋もれていきました。

それから数年経ったある冬の日。

「何か今日G1やってるらしいね、テレビつけてみようか」

そう言いだしたのは私だったか、主人だったか。競馬を離れた頃に入籍した主人と子供二人と、リビングでくつろいでいた時でした。
(余談ですが競馬を離れたのは主人が原因ではありません。彼も無類の競馬好きで、当時は二人して何となく足が遠のいたという感じです)
テレビをつけ、競馬中継にチャンネルを合わせます。

「へえ、今阪神3歳牝馬ステークスって言わないんだ」

テレビに映し出されたのは阪神ジュベナイルフィリーズの文字。競馬を見ていない間に名前が変わっていたことも知りませんでした。

「えっ何この馬、プリキュアだって」

当時子供たちが夢中になって見ていたアニメ、「ふたりはプリキュア」(当時はMaxHeartだったけど)と同じ名前の馬、テイエムプリキュアが気になり、新聞のスポーツ欄をチェックします。
小さく載っている出馬表を見るとその馬に乗っていたのは熊ちゃんでした。しかしテレビを見る限り、そう人気はなさそうです。

「競馬見るの久しぶりだな……」

そう思いながら何の気なしに見ていました。スタートして、テイエムプリキュアは中団くらい。雨の降りしきる中を走っていく一団。4コーナーを回り、相変わらず力強く馬を追っていく熊ちゃん。そして直線。

「えっ、ええっ」

ラスト200mからあれよあれよとテイエムプリキュアが追い込み、そのまま差し切って勝ってしまいました。

「え、え、マジで」

ゴールをいちばんで駆け抜け、ガッツポーズをする熊ちゃん。

そうです。

「熊ちゃんがG1を勝つところが見たい」

何年も前に願った夢が、ここでポンと叶ってしまいました。

何も自分がすることではないのに夢と呼ぶのはおこがましいかも知れませんが、確かに一つの夢が叶った瞬間でした。

「夢は必ずしも実現するわけじゃないけれど、心の奥底に置いていたら、忘れた頃にそれがひょっこり叶うことがある」

この一件で、そんなことを思って当時付けていたブログに書き留めました。もうデータもなくなってしまったのでその時の文章を思い出せないのですが…なんかこんな画像貼ってたりしたような。

ぷりくまー

それを機に競馬に舞い戻った……ということはなく、相変わらず子育てに追われる日々を送り、また競馬にかまけるようになったのは2021年なんですがこの話はまたの機会にでも。それからテイエムプリキュアが辿った道筋やあのエリザベス女王杯を知ったのは戻ってからですね。

競馬に出戻ってからも熊ちゃんの応援馬券を買ったり、戦績をチェックしたりと楽しんではいたのですが、二度の怪我と、あとは仕事の関係で(土日必ずしも休めるわけじゃない&午前中忙しい)なかなか障害戦での姿を見ることが叶わなかったのが心残りです。

引退を知った日は、ちょうどBUCK-TICKの櫻井敦司さんの訃報からあまり経ってない時で、個人的にダメージが大きかったです……あっちゃんがいなくなって、その上熊ちゃんまで引退してしまうのか……泣きました。もうあの力強く馬を追う姿が見られないのは淋しいです。

だけど、これまで満身創痍で頑張り続けていた熊ちゃんの、新たなる人生に幸多かれと祈りながら、ここいらで筆をおきたいと思います。平地、障害の二刀流で1000勝するようなすごいジョッキー、もう現れないだろうなあ……。

とりとめのない文章をここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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