見出し画像

天気の子もまた、バッドエンド

※天気の子のネタバレ含む

僕にとっての新海誠

『秒速5センチメートル』を初めて見た時の感動を、僕は忘れない。

貴樹と明里はあの日間違いなく、忘れられない思い出を作った。「永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのかわかった気がした」と言った彼は、転校後も就職後もずっと彼女のことを想い続けた。

しかしこの物語の結末には、普通に学校生活を楽しみ、普通に大人になり、そして普通に結婚相手を見つけた明里が描かれていた。そこには永遠も運命もなかった。かつて心の底まで満たしたあの感情をまるで忘れてしまったかのように、明里は貴樹との人生ではなく、別の人生を普通に歩んでいた。

”まるで奇跡のような、忘れられないほどの、特別な体験”は、その後の時間や環境によって過去の思い出に変わっていく。どんなに特別な体験だったとしてもそれは奇跡でも運命でもなく、まして永遠に続く想いなどではない。

それは、桜の花びらがゆっくりと散って最後には枯れてしまうように、特別な体験は思い出に変わっていき、特別は普通に変わっていくのである。

この映画を見終えた僕は、貴樹の虚しさに心の底から共感し、そして共に悲しんだ。この映画の結末は、主人公補正による予定調和なハッピーエンドでもなく、求め過ぎた幸せへの欲望が不幸を生んだバッドエンドでもなく、運命や永遠や奇跡が平凡な普通の生活に負けたという結末だった。

これは現実世界ではみんながよく知っている事実である。僕たちは普段、奇跡や運命を頼りに生きているわけではない。子供の頃に誰かと誓った”永遠”も、あの日だけ帰り際に突然キスしてくれた”特別”も、好きな子のことを考えていたらその子も自分のことを考えていてLINEが来たという”運命”も、懐かしい思い出の一つでしかない。

僕たちはそのことを思い出だと割り切り、普通に働き、普通にご飯を食べ、普通に生きている。新海誠は、ただその当たり前の事実を、提示してくれただけである。

そして、これこそ新海作品の魅力であり、僕が新海作品を好きになった理由そのものである。

画像1

天気の子と新海誠

『天気の子』は予告の段階で、既にバッドエンドになる未来は見えなかった。そしてもちろん予想通り、ヒーローとヒロインは最後に再会を喜び合い、ハッピーエンドで終わりを迎えた。

帆高は万人に影響を与える天気ではなく、自分自身の愛する気持ちを選んだ。そしてそのために、拳銃を使用し、警察官に反抗し、ヘルメット無しでバイクに乗った。そんな様々な罪を犯した帆高も、そしてそれに協力した多くの仲間たちも、彼女を救った後は普通の生活を再開した。結末で帆高と陽菜は再会し、抱き合った。

彼らには、代償もなく、痛みも悲しみもない。それどころか、数年会っていない帆高と陽菜は、なぜかついさっきまで会っていたかのように仲が良い。これは何だろう。主人公補正による予定調和なハッピーエンドである。

唯一彼らに与えられた代償を挙げるとすれば、東京の水没である。これは、陽菜を救ったことによって”世界の形を決定的に変えてしまった”と作品内で言われていた。

しかし、僕はこれが大きな代償だとは思わない。作品中盤でこんなセリフが出てきた。「異常気象は今に始まったことではなく、昔から続いていた。」「昔は江戸そのものが入り江だった。」

これは、東京の水没が、長い目で見れば異常と呼べるほどの代償ではないことを意味する。しかも東京が水没した後、東京に住む人たちは生き方を変え、場所を変え、みんなその生活に適応していた。帆高と陽菜は、本当に世界の形を変えてしまったのだろうか?それほどまでに影響を与えた代償だったのか?僕にはそう思えない。

『天気の子』は”運命や永遠や奇跡が平凡な普通の生活に負ける”という結末とは程遠い結末だった。『秒速5センチメートル』で言うと第一部までしか描かれていないように見える。

だが、僕は信じている。

帆高と陽菜はきっとあの後上手くいくことはないだろう。3年ぶりに会った2人が、急に仲良くなれるはずがない。そしてきっと陽菜には恋人ができている。映画の最後で抱き合った二人は陽菜の家に向かうが、そこにはきっと、凪の他に彼氏も暮らしているはずだ。「姉ちゃんを幸せにするのは、この人だ」という凪のセリフと共に。

それを知っている、それを信じているからこそ僕は、普通の生活をし続けられる。特別な経験は、人生を変えたりなんかしない。運命や永遠や奇跡は、その瞬間にしか感じることができない。もちろんそこに一定の価値はあると思うが、それは人生に影響を与える日の延長ではなく、年に一度の贅沢な食事や海外旅行と同じ、非日常であり現実とは切り離され夢を見ているようなものである。

奇跡は、それ自体は紛れもない奇跡である。しかし、それ以上でも以下でもない。例えば隣の家に住む異性と何の示し合わせもなく海外旅行先で奇跡的に遭遇したからといって、それはその後の二人の間柄とは何の関係もない。奇跡はその場限りなのである。

僕は帆高の虚しそうな表情を想像し、それを新海誠が与えたくれた教示だと信じている。だからこそ今日も安心して”普通に”生きることができるのだ。

運命も永遠も奇跡も、その後の人生には影響を与えないと知っているからこそ。

新海誠の変遷

『秒速5センチメートル』以来、複数の新海作品を見たが、徐々にバッドエンドを隠すようになったと感じる。

『言の葉の庭』では孝雄とユキノ先生の恋が最後に実るが、ユキノ先生の「四国へ行って先生をする」という発言と共に物語が終わり、二人は離れ離れになってしまうことが確定する。二人が数年後再開するのか、その時二人の関係がどうなるのかは、一切の描写がない。これが『秒速5センチメートル』だったら、孝雄がお金を貯めて四国に行く頃には、ユキノ先生は普通の生活を送り、普通の結婚相手を見つけているだろう。とはいえ、二人は数年間会えないわけだから恋が実る可能性は低い。

『君の名は。』では瀧と三葉が最後に出会って名前を聞くところで物語が終わる。『言の葉の庭』と違うのは、二人は近くに住んでいて会える状態になっているということである。会えるのだから二人は再び恋をするのかもしれないし、あれから数年経っているのだから、三葉は普通の生活を送り、普通の結婚相手を見つけているのかもしれない。

そして『天気の子』では二人は再開して抱き合ったところで物語が終わる。『言の葉の庭』や『君の名は。』と違うのは、二人は抱き合っていて恋が結ばれる可能性が高いということである。しかし、それでも僕は、二人の恋は実らないと信じるしかない。

僕にとっての新海誠は変わらない

あの日、『秒速5センチメートル』を観て感じた想い。それこそが僕にとっての新海作品である。

しかしそんな想いも虚しく、最近の新海作品はありふれた”セカイ系”へと変わってしまった。かつて僕が感動した特別な想いを、新海作品から得ることはもうできない。

ただ、それすらもまた、新海誠が僕に与えた”特別な体験が平凡・普通に負けた”という結末なのかもしれないと思っている。

つまり、僕が『秒速5センチメートル』を観た時に感じたあの想いは特別な体験であり、ありふれたセカイ系映画は普通であり、僕が求め、僕が想い焦がれていた特別は平凡な結末に負けてしまったのである。

「やはり映画で食べていくには万人ウケする結末が必要」なのかもしれないし、「多くの人を感動させるには他の映画と同じくありふれたハッピーエンドを描くしかない」のかもしれない。いずれにせよ、大人になった貴樹が結婚を決めた明里の話を聞いて絶望したのと同様、新海作品の変遷を感じて今まさに僕は絶望している。そしてその絶望に、感動している。

それらをメタ的に考えてみると、やはり僕にとっての新海誠は『秒速5センチメートル』の時から変わらず素晴らしい。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?