空が晴れずにいてくれたなら

*お題で書かせていただいた小説っぽいものです。
即興なのでちょっと詰めが甘い気がしますが……よろしければ朗読など、ご自由にお使いください。

 空が晴れずにいてくれたなら
 
 帰り道に立ち寄った、古い本屋の軒先で。なんとなしに棚を見回っている途中から屋根を叩き始めた雨は、店内を出てもまだ止まない。
 前が見えないほどの、というわけではなくて。無視して走り抜けるには、やや強い。
 天気予報のアテが外れた、傘の欲しくなる午後の雨。
「出かけよっか」
 ぼうっと眺める昏い雨雲の横たわった空へ、思わず意識が吸い込まれそうになっていた私は、彼女の呟いた言葉で我に返る。
「……何言ってるんです?」
 いつものように冷めた口調で切り返した私に、その子は片頬で笑ってみせる。
 メガネを通した私の瞳へ、鮮やかに映る緑がかった碧眼の少女。私よりやや低い位置にある面差しは中性的で、たまに男の子に間違えられることもある。
 実際、彼女は活発だし、少年のようなところがあった。
 薄いブロンドの髪をうなじの辺りでまとめた、細長いローポニーの少女。私とは対照的な幼馴染は、二十歳に近づいた今でも眩しく、憧れで、ふと気づけば惹かれてしまう。
 そんな私の内心を知ってか知らずか。彼女は私の手を取り、こう続けた。
「今さ。ちょっと遠くの景色を見たいんだよ」
「それで?」
「雨の上がる間までにどこまで行けるか、試してみたくない?」
 たまにこういうことを言い出すのは、彼女の魅力と呼べるだろうか。少なくとも私の中ではそうなっている。突拍子もない行動に度々振り回される一方、内心楽しんでいる私がいた。
「はぁ……試してどうするんですか。風邪ひきますよ」
 と、ため息まじりに返した時も、やはり私は期待していた。
「大丈夫だって。電車使えばいいから」
「なら雲の外に出て終わりですよ」
「行きたくないってこと?」
「……そう言うわけじゃないですけど」
「じゃあ決まりっ」
「え? わっ!」
 止める間もなく手を引かれ、雨の中へと飛び出してゆく。動揺している私の髪が、さっそく雨で張りついた。
「ちょ、ちょっと! いきなりですか!?」
「えぇー? 決まりって言ったじゃん」
「だからってこういうのは……ああもうっ」
 文句を言いながら、私の口元は緩んでいた。ローファーの下で跳ねる水滴。一歩前を駆け抜けて、上下に揺れる、薄い金髪の彼女の毛先。
 わざわざ雨の中を走るなんて、こんな馬鹿げたことが無性に楽しく、どうしようもないほど嬉しくなる。
 束の間、私は憧れに囚われた。
 彼女の傍で、ずっと彼女を追えたのなら。それはどんなにか幸福だろうかと。
 
 
 
「ほら、びしょ濡れじゃないですか」
 駅の構内に、コンビニが置かれていたのは幸いだ。乗り込んだ電車が、ちょうど人のまばらな時間帯だったことも。
 私たちの他には誰もいない、静かな空間。線路を進んでゆくそれにガタゴトと揺られながら、私は買ったばかりのタオルで彼女の髪を拭いている。
「思ったより濡れちゃったなぁ」
「何を他人事してるんですか」
 彼女はどこか楽しそうに、私がぼやいても照れたように笑う。
「終わりましたよ。あとは自分で拭いてください」
「おおー、苦しゅうない。じゃあこれ」
 といって私の手のひらに彼女が滑り込ませた缶は、冷えた指先へ熱を伝えた。
「その紅茶、お気に入りでしょ?」
「120円で付き合わせたお詫びですか?」
「心外だなぁ。自販機だと150円だったし」
「大差ないですよ」
 心地よい距離感。明け透けなやり取りの後で、私たちの会話はふと途絶える。
 電車の揺れと、窓を叩く雨の音。降りやまない雨粒を見つめていると、彼女の感触を肩に感じた。私にもたれる、同い年の少女。
 こうしていると、普段は忘れがちな美しさがよくわかった。
 雨に濡れた薄いブロンド。整った面差し。日頃は彼女のイメージの中心である活発さが消えると、さながら西洋人形を思い起こすほど、精巧と精悍とを併せ持つ、際立った美しさ。
 いっそ、抱き寄せてしまえたら……。
 私の脳裏をよぎった考えは、改まって実感するまでもない、押し殺し続けた本心だ。
「寝ちゃったんですか?」
「目の休憩」
 ぼんやりと呟く。うたた寝とはどう違うんだろう、と。口にしかけた疑問は、前述の願望とせめぎ合い、消えてしまう。
「……そう」
 とだけ、ようやく返せた私は、また窓の方へと首を傾けている。
 雨はまだ続いていた。雲の切れ目は見えてこない。どうせならずっと続いてくれればいいのに。現実逃避の空想が、胸の奥へわだかまる。
「……もうすぐだね」
 その言葉に、私は一瞬ぎくりと固まって。終わらないで欲しい、よりも。彼女に悟られていませんように、なんて考えが先に来てしまう。
「卒業式。もうすぐ来ちゃうね」
「ええ……」
 胸裏に広がる安堵と、もうひとつは鈍い痛み。何かが軋むような感覚の中、私は小さく相槌を打った。
 たとえば雨が止まなくとも、いつか電車は終点に着く。このまま雨が降り続いても、お互い別々の生活が始まってゆく。
 わかりきった事実が、ただ痛み、卑怯者……と自嘲が聞こえる。
「私がいなくても、ちゃんと起きるんですよ?」
「ひどいなぁ。そこまで子供じゃないのに」
「さっきまで髪を拭いてもらってたのは、どこの誰でしたっけ」
「……それもそっか」
 また話が途切れる。言いたいことはいくらでもあった。伝えたいことは、これまで何度となく喉を掠めた。けれども、いざ言の葉に乗せようとする度、本音は悪態よりずっと重いもので、軽口がなぜ軽口と呼ばれるのかを思い知る。
 彼女にもらった缶の紅茶を、両手の間で転がしながら。いつしか私は、どうしようもなく逃げたい衝動に駆られていた。
 同性だから切り出せないのか。
 それとも、単に私が意気地なしという話だろうか。
 たぶん後者に違いない。
 逃げ出してしまいたいと思うのは、彼女に対してか、それとも現実か……。
 二つ、三つと駅を越す。少しの間だけ停車していても、流れてくるのはアナウンスだけ。まるでこの世に取り残されてしまったかのように、私と彼女だけが電車に揺られる。
 本当にそうだとしたら、痛みは少しでも和らいだのか。
 いいや。きっと私は、そこでもまだ軽い言葉しか紡げない。
「いつも、引っ張ってくれましたよね」
「ん……?」
「私の手を取って、私の知らない場所に。今日みたいに無茶もさせられましたけど」
「後出しはズルでしょ。嫌なら嫌って言ってくれればいいのに」
「……思ったこと、ないですから」
 身じろぐ気配。肩に寄りかかる彼女の、私を見上げる瞳。その緑がかった碧眼は、ほんの一瞬だけ縋るように揺らいだ気がした。
 今なら言えるだろうか、と。
 開こうとした口は、だけど伝えようとした言葉が私にとって重すぎたらしく、舌先へと乗らないうちに胸の奥まで戻ってしまう。
「慣れましたからね」
「……そっか」
 触れ合う距離で、身を預けられてもまだ、伸ばせば届く私の指先は暖かい缶を転がした。せめて彼女が呟き、顔を伏せる刹那。寂しげに笑った気がする横顔は、私の見間違いでなかったと信じたい。
 言い出せないのはどちらも同じだったとしたら。
 もしそうだったなら、あと数センチだけ指を伸ばせなかった後悔は、お互いの中でクサビとなって残り続けるはずだから。
 そうであってくれたなら、少なくとも慰めにはなるだろう。私たちに出来る、これが精一杯の距離だったのだ、と。
「雨、止みましたよ」
 消え入るような彼女の囁きから、いったいどれだけ経っただろう。あの雨雲が消えていることを悟って、私は言う。
 聞いたことのない地名の駅で、私と彼女は電車を降りた。雨は私たちの少し前に、ここを通ったらしい。まだ残っている水気が、夕日の中でそっと煌めく。
「綺麗だね」
 私より一歩前に立つ彼女は、赤い日差しの中で振り向き、微笑んだ。いつも見ていたあの屈託のない笑みでなく、どうしようもないほど脆く儚く、淡い微笑。
 ええ、と。
 言葉にも出来ず、胸中にだけ相槌を打った私の前で。濡れたローポニーの毛先は、少し早い夜風を受けて揺れていた。

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