夜につたう、朝にそよぐ

*お題「雨」の小説その2です。
前回の話がどうしても朗読向きな気がしなかったので、我慢できずに書きました。
…が、かといってこれは朗読向きなんでしょうか…わかんないですね。
よろしければご自由にお使いください。


 夜につたう、朝にそよぐ
 
 はしらせていたペンをふと止めて、つい先ほど日付線を跨いだと思った時計に視線を巡らすと、いつの間にやら針は深夜三時の位置へ置かれていた。
 もうそんな時刻になったのか。
 私は独りごちて原稿に向き直り、物語の中からほんの半歩分だけ外に出た目で、インクの記した文字列を眺めてみる。
 そして思わず、ため息をこぼした。感嘆のそれでは決してない。苦渋と焦燥、自分自身の才能に対する失望だ。
 物語に憧れ、物語を生み出す側になり、幸運にも僅かばかり稼げるほどにはなった。いわゆる文才というものがあったのではなく、ひたすらの編纂(へんさん)の果てに。友人も生活も、あらゆる繋がりを断ち、私は空想へ沈み続けた。
 それでもまだ足りていない。
 それだからこそ足りないのか。
 半ばまで書き終えた原稿を、束ねてクズかごに放り捨てる。考えてもまとまらず、握ったペンの重みにさえも陰鬱な倦怠感がつきまとった。脳みそが煮えるこの感覚をこそ、いつか断てないものだろうか。
 私はペンでなくランタンを取り、暗闇の中、ストーブまで行って火をつけた。どうせ書けないのなら息抜きをしてもいいだろう。とりあえずの口実は、物語よりずっと素早く行動に出来た。
 ストーブで湯を沸かし、棚から取り出したコーヒー豆をひいておく。
 窓を微かに叩く水音へ気付いたのは、その時だ。薄明りに目を凝らすと、夜の中、数滴の水が窓をつたい落ちていた。
 人知れず降る、夜の雨。コーヒーを淹れる頃まで、私はじっと雨を眺め続け、湯気を立てる眠気覚ましをカップに注いだ後は、思いつくままにテラスへ出た。
 静まり返った森の中。しとしとと降り続ける小雨に、夜気はいつもより冷えている。
 その冷たさが心地いい。脳みそに溜まった熱を落ち着かせてくれる。
 椅子に腰かけ、カップをテーブルに。それから、私は懐を探ってキセルを取り出した。少し経ってから、夜の底にぼうっと浮かんだマッチの火が、煙草に灯って紫煙をくゆらす。
 二度、三度……煙を吸って、煙を吐く。私は背もたれに身を預け、静かに目を閉じてみた。
 ぽつりぽつりと聞こえる雨は、森にとっての寝物語なのだろうか。穏やかに寝息を立てる木々の中、コーヒーの匂いにキセルから漂う残り香が、私の肩から荷を下ろす。
 束の間、私は物語を忘れた。雨になだめられた夜が、意識の扉を閉ざす様子を見つめながら。こんな夜より優れた空想があるだろうかと、自嘲でなく睡魔と語らった。
 しばらくして、木々のさざめきにまぶたが開く。
 雨はもう上がっていた。夜はすでに、西の空へと去りつつある。日差しを受けて煌めく枝葉が、朝の運んだ風にそよいで静かに微笑んだ。
 私は不意に、ペンの重みが恋しくなった。インクをはしらす感触も、原稿に記した文字の世界も、私の憧れた物語にすら、また向き合いたくてたまらない。
 書きたい朝にちょうどいい、冷めたコーヒーを飲み干して。私はペンを求めて椅子を離れた。

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