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喜安浩平の『庭から』~脚本創作8・帰還~

帰ってきました、私の庭に。先日、私が脚本を担当した『風が強く吹いている』というTVアニメシリーズも放送が始まり、ここに書きとめておきたいことは色々溜まっているのですが、なにしろ今、私は来年5月のブルドッキングヘッドロックの公演のことを考えています。


『庭から』は、脚本創作を手段とする私が、『さみしさと一緒に暮らすため』の理屈をあーだこーだとこねくり回す場所です。続きが手つかずになって久しい例の、オマエと先生の台本以外のことも、必要に応じで書いてよしと思っています。よしと思ってはいますが、でも、なんとなくブルドッキングヘッドロックのことは、書くべきかどうか逡巡するところもあります。それは、ブルドッキングヘッドロックで積み重ねてきた創作の方法とは異なる入り口から創作について考えてみようというのが、このnoteに着手した一つの動機でもあるからです。


でも、あまり細かいルールを作ったところで、そんなものは読む方々にとってはどうでもいいことなのだろうとも思います。ブルドッキングヘッドロックのことを書こうが書くまいが、皆さんにとってはどうでもいいことでしょう。書いたものが有益か、あるいは、心のどこかにわずかでもひっかかるか。


どうでもいいことをやっている。そのことのさみしさが、あるいは、さみしさを埋めるために始めた劇団活動がさらなるさみしさを生み出すという虚しさが、でも、このnoteにポロポロとこぼしていくにはぴったりなのではないかとも思います。ということで、たまにはブルドッキングヘッドロックのことも書いていこうと思います。


次のブルドッキングヘッドロックでは、『ある芸術にまつわる物語』を描くことを決めています。これはもうSNSや、劇団のHPで公にしていることですので、大きく変わることはありません。しかし、それ以外に決まっていることはほとんどありません。決まってもいないのに、公にしてしまったので、公にしたことを元に創作を進めなければなりません。これが、ブルドッキングヘッドロックの、標準的な作り方です。


世の中のエンターテイメントの大半が、作ってる本人たちにも全貌が見えたところで情報公開をするのだと思います。でないと、なにをどう伝えたらいいのか、本人たちもよくわからないからです。作り始めた当初は、どんな作品だって、ほっこりするのか怖いのか、笑えるのか泣けるのか、なにが言いたい話なのか、誰にもわかりません。ブルドッキングヘッドロックの次回作もそうです。まだ、誰にもどういう物語かわかりません。私ですらよくわかっていません。だから、わかるところまで来てから情報を出す。


なのに今回ブルドッキングヘッドロックが『ある芸術にまつわる物語』ということを先出しししてまったのは、紛れもない、「そろそろなにか情報を出さないと準備が遅れ遅れになってしまうから」という、制作側の思惑が働いているからです。


いや、正確じゃないな。制作ではなく、作家とは別の、劇団の主宰である私の、「そろそろ劇団からなにか発信しなければ」という思いが発信をさせた、というのが本当のところでしょう。できてもないのに発信するという意味では、「宮崎駿、引退撤回、新作に着手」と同じような種類のものでしょうか。違うか、あれはみんなが、おっ!とか、え?!っとか、またかよ!となる情報ですからね。


このとき、その程度の情報なら出す必要なかったんじゃないか、と作家の方の私は冷ややかに思います。でも一方で、情報を出すために、たった一言、ブルドッキングヘッドロックの次回作は『ある芸術にまつわる物語』であることを世の中に伝えるために、足りないお金と時間をなんとか駆使して宣伝方法を考えることが、結果的に、作家の中の『どういう物語なのか』を刺激することにもなるのです。


そう。作家に考えさせるために。


主宰がこんな初期も初期の段階でもあえて情報を出すときに意識している相手は、心待ちにしてくださっているお客様、と同じくらい、物語を決めなければならない作家のことなのです。


情報を出す。出すための方法を考える。より届くアイデアを出す。その過程に主宰の私と作家の私が同席します。私の口を突いて出る言葉は時に立場を超え、どちらの主張なのかわからないこともあります。仲間を混乱させることもあるでしょう。でも、そうなってでも作家喜安を参加させて、作品に思いを馳せさせることが、主宰の公演事業の最初の一歩となるのです。というのも、皆さんにとっては本当にどうでもいいことですが。いいから書けよという話です。


先月、情報公開を受け取る方々に楽しんでいただくために、ある動画を製作しました。“サモトラケのニケ”というルーブル美術館所蔵の有名な彫像を、ブルドッキングヘッドロックのメンバーが、見よう見まねで作っていく、という動画です。


公式サイトのトップから動画はご覧いただけます。ぜひ。

http://www.bull-japan.com


ニケの製作は、それはそれは楽しいものでした。この数年、この手の達成感は感じたことがなかった、と思うくらい、良い体験をさせてもらいました。出来の良し悪しとか、段取りの良し悪しは問題じゃない、その場にいたものにしかわかりえない、こう、えもいわれぬ?喜びがありました。


この3時間半の製作過程を1〜2分に凝縮し、SNSに載せて、来年5月、吉祥寺シアターで公演をやるよという情報とともに、世の中に頒布したわけです。どれほどの方の目に触れたのか、動画の再生回数だけでは正確に読み取ることはできませんが、それでも、たくさんの方に届いたのだと信じています。5月ね、行こうか。と思ってくださる方が一人でも増えていたらなによりです。


でもそれ以上に、そこに作家喜安がいたことが、とても良かったと思いました。芸術を体験することで(誰にでもできる作業です)、芸術に通じる脳のどこかの感覚野が、フッと目覚める感覚があったからです。(当社比)


芸術の難しいところなどどうでもいいと思いました。昨今の芸術事情やら、売れない芸術家の苦悩やら、描くことはそんなことじゃないと思いました。誰にでもできる芸術を体験したことで、誰にでも楽しめる『ある芸術にまつわる物語』が作りたいと思えるようになりました。いや、そんなことは当たり前のことじゃないか。観客を相手に商売がしたい主宰からすると、何を今さらと思います。ですが、そんな、当然極まりないことだって、作家の方は腹をくくるまでにあーだこーだと悩むものなのです。一歩前進。そう思える体験でした。


というわけで、『誰でも楽しめる』、が次のキーワードになりました。


そこでまず考えなければならないのは、「そもそも芸術は、誰もが楽しめるテーマなのか」ということでした。なにしろ、ピカソやゴッホより、ラッセンが好きな人が大勢いる世の中です。そもそも、ピカソやゴッホは芸術で、ラッセンは商業と分けるような考えがどうなんでしょう。そこにこだわる人も確実にいるにはいるのですが。ラッセンが好き〜も、それを前提にしたおかしみと言えます。でも、そんなこだわり自体、ピンとこない方もたくさんいらっしゃるでしょうし、分けようとするときの小難しさについては、「誰でも」わかるものではないように思います。


芸術は、多様で幅広く、そして、誰もが同じだけ興味を持っているものではない。


そこで。作家と主宰は、あえて、『人は芸術に興味がない』と仮定することにしました。これが最初のもくろみです。もくろみについては、第3回の更新をご覧ください。→   https://note.mu/kiyasukohei/n/na892f89a0e5d


なのに、芸術をテーマにした脚本を書かなければなりません。


さて。腕が試されます。こうやって、どうでもいいこともつぶさに触れていくと、発火点が見つかるものですね。作家は、それ以前より、少ぉしやる気になっています。主宰は、そんなあいつをもう少し泳がせてみようと企んでいます。

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