喜安浩平の『庭から』~脚本創作3・もくろみ~

『庭から』には、私の、「新しい場所を作りたい」という発案に賛同してくれた仲間がいます。


便宜上、編集部という呼び方をしていますが、いろんなことを相談しています。この投稿のヘッダーや、タイトルロゴなども、彼らの助力をいただいてできたものです。写真はフリー素材を拝借しています。余裕ができたら自前の写真も使用したいのですが、そもそもこの庭、仮想庭なので、どこで素材を見つけてくるかが問題です。


ぜひ皆さんのご自慢のお庭を拝見して、いいところを頂戴したいくらいなのですが、それでは本当にどこかに庭を作る企画になってしまいそうです。タイトルとヘッダーだけご覧になって訪れた方は、ガーデニングを始めるのか、と思う方もいらっしゃるやもしれません。いいえ、違います。ここは創作の庭です。どうぞお見知りおきを。寄り道もほどほどに楽しんでまいります。


編集部のメンバーは、私が主宰をしておりますブルドッキングヘッドロックという劇団の劇団員、鳴海由莉、浦嶋建太、山田桃子の3名です。『庭から』は、私個人の自由な創作の庭なので、巻き込む方々をブルドッキングヘッドロックのメンバーに限定することは考えておりません。ですが、やはり最初に相談したのは、劇団の仲間たちでした。なにしろ、私が創作することを誰よりも許してくれる、数少ない、大切な集団です。ブルドッキングヘッドロックがなければ、脚本家を名乗るような人生を歩むこともなかったでしょう。一方で、脚本家になるつもりなど毛頭なかったのに、という戸惑いも無いわけではないのですが。締め切りほど、性に合わないものもないのですから。


なにしろ通せる筋は通したい。ということで、このnoteは、劇団員のみんなに相談し、企画書を配布、口頭の説明も幾度か重ねてからスタートさせています。頭の片隅では、そんなにちゃんとする必要があるのだろうかという思いもよぎらなくもなかったのですが、おかげさまで、ちゃんとする面白さが味わえています。すぐに予定を狂わせがちな私ですが、まだ少ししか狂っていないのは、最初の下準備の賜物なのではないかと思います。やはり、ちゃんとしておくに越したことはありません。いや、すでに少し狂ってるんじゃないか。そういうお言葉は、そっと胸のうちにしまっておいてください。


協力を申し出てくれた彼らのおかげで、なにもない庭でも心細くありません。一人はさみしいですからね。もし、今後のこの企画の動向を見ていて、手伝ってみたい、なにか関わってみたい、という方がいらっしゃいましたら、お気軽にコメントなどお送りください。なにしろ垣根もありませんから。うちの庭を使ってもいい、という奇特な方もぜひ。


先日、編集3人と打ち合わせを行いました。今後、小編を製作していくにあたって、なにからどうしていこう、という話をしたのです。そもそも、小編の製作ということも決まっていたわけではなく、彼らと話すうちに、私個人の適切な作業量や、ネットを介した創作発表における適当なボリューム感が具体的にイメージされ、まずは小編から、という方針に落ち着きました。なにしろ期間を3ヶ月に設定しています。大風呂敷を広げてしまって、せっかくの庭が荒れてしまうのはしのびない。文字通り、小さなことからコツコツと作り上げていこう、ということになったのです。小編というのがどの程度の文量を指すのか、そのあたりのことは投稿を改めます。


で、一つ前の投稿「序の2」で勿体つけてしまいましたが、

https://note.mu/kiyasukohei/n/n07db03fbc7d4

3人と「どこからどうするか」という話をしました。やる気だけがある。あとはなにもない。そこからなにかを作り出そうとしたときに、なにを手掛かりとするのか。どこからどう始めるか、ということについて考えました。私自身の経験に即した話なので、とっくにどこかで論じられているようなことだと思います。恥ずかしさは承知で、私が私の庭を作るために、改めて言葉にしていきます。


誰が言ったか、テーマを決めるところから始めなくても良い、というのは、そうだと思います。かつて、初めて脚本を書いた時、テーマらしいテーマなんてありませんでしたが、書いてみたいという衝動で書き切ることができましたので、私にとっては(書くことだけで言えば)それでいいのだと思います。


それだけで書ききれた時点で、私にはなにかしらの書く素養があったのかもしれません。でも逆に、テーマを決めてから書こうなんて考えていたら、なにも書けていなかったかもしれません。実際、初めて書いた脚本は、書きあげた後、結局なにが言いたいの?と指摘され、すっかり思考が停止してしまいました。言いたいことなんてなかったのですから。愉快でいいねでは済まされないのだなと、しょっぱなから食らわされた思い出です。結局、強めに主張された意見を採用し、ラストシーンにとってつけたようにテーマっぽい台詞が付け足されました。言いたいことのない脚本に、さも言いたいことがあるかのような言葉を巧みに溶接するなんて、当時の私には持ち得ない技術でした。すいません、今はあるような書き方をしてしまいました。あったら苦労はしていません。


逆に、テーマがあっても差し支えない、とも思います。それがあるおかげで、思索の動線が確かなものになることもあります。でも、おかげで煮詰まることも、視野が狭まることもあります。人から与えられたものならなおさらです。引き受けてはみたものの、なんだかちっともピンと来ないんですよね…、などという失礼な停滞も、幾度か披露してまいりました。


ちなみにこれ、もう書きたいものがある方にとってはどうでもいい話です。こんな庭、素通りしてどうぞ表通りへ。そういう、本当に書けるタイプの方はいいのです。私のように、書く気だけはあっても、今、手元になにもないかのように思われる人の場合の話なので、じれったくもなるでしょう。ないかのように、と書いたのは、実際には、なにかはあるはずだからです。認識できていないということです。なにもないってことはないだろうと思うのです。そうとでも思っていないとやっていられない、というのもあります。


手元になにもないように思われるのは、むしろ、頭や体がそれを、それだけを探すような状態になっているからだと思います。目や耳が、無いテーマを無理やり拾おうとしているのです。そうなると、一見テーマになりそうなものが優先的に視野に入ってきますが、それはやはり、手元にあるものじゃなくて後に苦しい思いをしたり、本当は手元にあるものなのになにか違う気がして放り出してしまったりします。人の目や耳は、見たいもの聞きたいものを選んで認識できるといいますからね。それがピタッときているかどうかは、関係ないのでしょう。


じゃあ結局、なにがあったら始められるのかというと、私の場合は「もくろみ」です。「くわだて」でもいいと思います。自身のピンとくる言葉でいいのでしょう。もくろみが私にはピンときます。ピンと、というか、ムックリが正しいように思います。もちろん気持ちがです。もくろむと、気持ちがムックリ起き上がるというわけです。ビーン!の場合もあるでしょうが、いいかげんこの辺にしておきます。


さらにこれ、「のようなもの」をつけると、もっと正確なようにも思います。曖昧にしておいて正確もなにもないでしょうが、言葉にすることで正確さが失われることはよくあります。私が下手なだけかもしれません。なにしろ、「もくろみのようなもの」です。


「もくろみのようなもの」があると、私がムックリ起きて、状態が定まるのです。状態が定まると扱う材料も見えて来る、というか、必然的に選ばれるようになります。あるいは原作をお預かりした場合。そこに「もくろみのようなもの」があることで、原作の扱い方が決まります。


これはつまり、自分の中に、企画者あるいはプロデューサーのようなもう一人がいる、ということなのでしょう。この人が働いて初めて、もう一人の私、パフォーマーとしましょうか、パフォーマーが、あるルールの中で、そのルールなりの自由を表現し始めます。


先の投稿の『電影少女2018』の場合ですと、この企画を、「25年前の電影少女を、現代の若い俳優の力で再生する場」だと認識した私は、脚本を書く上でこうもくろんでみました。「電影少女は昔のものとする。今の若者にはピンと来ない。原作にあるようなスピード感、ポップ感、青春感は通用しない。野暮くてダサいものでいく」。


先に書いたように、「のようなもの」なので、文章にすると、もくろみっぽくないかもしれませんが、とにかくそのようなことです。こうなると、ヒロインを受け入れない若い主人公が必要になりますし、それに戸惑うかつての当事者がいた方が時代の隔たりが見えやすいし、と考えは連なり、現代版ではなく続編でいこうと至るまでに、さほど時間はかかりませんでした。


思えば、初めて書いた脚本もそうでした。あれは、大学内のあるコンクールのようなもので、劇を発表するための脚本でした。私は、言いたいテーマはありませんでしたが、そのコンクールの趣旨からはみ出すことは強く望んでいました。はみ出すことだけを、もくろんでいました。正確に言うと、書いてみたい衝動ではなく、はみ出したい衝動だったのでしょう。今ここに、はみ出すものを。それが、かつての私を動かしたのです。


『桐島、部活やめるってよ』にも『幕が上がる』にも、劇団に書き下ろした新作たちにもそのようなものがありました。では、今回の小編製作ではどこに目をつけて、もくろむか。今は、喜安が、インターネットの一角で、庭づくりだとうそぶきながら、独りごとを重ね、新たな創作環境を模索している、ということしかありません。


改めてそう書いてみて思ったことは、どうもさみしい感じがする…、ということです。更地に私が一人で立っていると思えばなおさらです。実際さっき、一人はさみしいと書いたばかりでもあります。


そうか。私は今、さみしいのかもしれません。いや、さみしいのです。それは今に始まったことではないのですが。仲間がいてもです。仲間がいるからこそでもあるでしょう。家族があっても、仕事があってもお金があっても、名誉があっても、もしも心の隙間を埋める不埒な関係があったとしても、ずっと、たぶん、さみしい。いや、これは別に悲しいことではありません。特別なことではなく、誰もがそうだとも言える話です。表現することをやめないのも、突き詰めていけば、そこにたどり着くような気がします。宇宙でたった一人だよ、です。


そう考えると、ほら、少しムックリしてきましたね。「僕らがなにかを始めるのは、希望でも野心でも発明でもなく、さみしいからだ」。庭を作るというのは、さみしさと暮らしていく、ということなのかもしれません。それは、ここにおいてもですし、あるいは、実際の誰かの庭においてもです。人によって、さみしさと愉快に暮らす方もいれば、さみしさと賑やかに暮らす方もいるでしょう。さみしさをそこにとどめ、その静謐な美しさを眺めて暮らす方だっているはずです。悲壮感はありません。むしろワクワクしながらです。


人がさみしさと暮らすために。これまで、脚本の創作にあたっては、「日常におかしみを」をキャッチコピーとしてきた私が、さみしさを意識するというのは、少なくとも自分の中ではちょうど良い風を感じます。これを、「もくろみのようなもの」とすることにしました。


そこで次に、3人の仲間に協力してもらうことにしました。いきなり変化球を投げるには、そんな腕も無いので、「もくろみのようなもの」から【さみしさ】だけを取り上げて、そのまま小編のお題にすることにしました。いわば、「テーマのようなもの」です。なんでしょう、いきなりテーマは【さみしさ】ですと言われると身構えてもしまいますが、先にもくろみがあると、このテーマにも無理は感じません。3人には、そこにかけ算する、もう一つのお題を提案してもらうことにしたのです。【さみしさ】とつながってなくても構いません。むしろ全然関係ないなにかが望ましいかもしれない。

これは、私と小編の距離を近づけ過ぎないためのもくろみです。書いた人間が、だってこうなんだ、俺がわかってるんだからいいんだ、と言ってしまっては、3人は口出しのしようもないですからね。彼らもこの庭で語ることができるように、彼らのもくろみも加えてもらうことにしました。

さて、ではいったいどんなお題を投げてくれたでしょうか。

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喜安 浩平

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