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喜安浩平の『庭から』~脚本創作5・余談~

いやはや。〆切の森からこんにちは。ここは庭なんかじゃない、深い深い森です。


庭が欲しくて始めたのに、さまようのはいつだって深い森。時折、濃霧に包まれたりもします。困ったものですが、その先にきっと憩いの庭があると信じて日々進んでおります。例えてばかりですがこれは書き物の話です。


『庭から』の更新が滞ってしまいました。仕事をしているからです。仕事でももちろん書いています。仕事で書いて、『庭から』でも書くわけですから、これ、よっぽど書くのが好きなんだろうな俺はと思い違いをしそうですが、そうです。思い違いです。私はそんなに書くのが好きなわけではありません。畳の上に寝転がり、鼻の下にえんぴつ挟んで、頭の中のことを自動的に書いてくれる未来の道具を出してよとか宣う小学生と、さほどレベルは変わりません。なのに。困ったものです。


現在進行形の仕事のお話は、どうにも書きづらいというのもあります。書けば、大変に面辛い話が次々に出てくるはずの近頃ですが、そこは私も大人です。ぐっとこらえて、関係ない文章の中に素知らぬ顔して混ぜ込んでいくことしかできません。今日もどこかに忍んでいるもかもしれませんが、そんなものはっきりと言えるわけがないじゃないですか。


ここになにごとか書ける作品としましては、やはり現在絶賛放送中の『電影少女2018』でしょう。誰か一人くらいは絶賛していると思っていますので、絶賛で間違いではないはずです。いますよね?と無人の庭に問いかけます。


電影少女2018は、第4話まで放送されました(地上波では)。4話は共同脚本でした。そういうことって、世の中にどのくらいあるのでしょうか。私が先頭切って立たせていただいたテレビシリーズのドラマに限っては、すべて、複数の脚本家さんに関わっていただいております。映画、舞台はこの限りではありません。


そこには様々な理由があるのだと思います。大きな理由の一つは、私の筆が遅いこと。テレビシリーズの製作のタイミングと、そのテンポに、私が追いつけていない、ような気がしています。もっと早く頼んでくれりゃいいのに、と思うことは、ままあります。が。が、引き受けたからにはそのテンポで書かなければならないと、まともなことを思う自分もいます。一番いいのはもちろん、面白いものができあがることです。面白いものを書こうとすると、やはりそれなりの煩悶の時間も必要になるのです、たとえそれが傍目にはなにもしていないように見える数時間だとしても。


まあつまり、私が遅い分を補うべく手分けをしている、ということです。本来なら私一人が書けばいいのでしょうし、それが本望かと言われれば、ええまあそうなんですが、一方、手分けをすることで、その作品に、私には見えていなかった角度があることを気づかせていただくことが必ずと言っていいほどあり、だから手分けすることに私は抵抗がありません。


もう一つの理由は、私が構成の類を苦手としている、ということが挙げられます。先を想定してプロットを書くということが、大変苦手、と、思い込んで、います。そういう作家さんは、小劇場にはまだいくらかいらっしゃるのでしょうか。今どきは、なんでもちゃんとしているイメージがあります。今となっては、そんな、あてどもなく書き始めるような作家さん、少ない気もしますが、どうなんでしょう。演出に比重を置く方は、また別の話になるでしょう。ああ、作と演出の比重の話です。


以前、劇団の企画で対談をさせていただいた、脚本に信頼が置ける小劇場の作家さんお二人は、どちらも脚本執筆に入る前に構成の準備があるようでした。いつの間にそんなもんを学んだんだ!と思ったものですが、なるほどだから信頼がね、あるよね、とも思ったものです。


構成の苦手な私は、書きたい場面から、いきなりセリフとして書き始めます。そうして人に動いてもらうことで、だんだんとその人を、そこに関わる人々を、やがては作品を理解していく、という順序で形にしていきます。私が元は俳優だからでしょうか(元って。今もそのつもりですからね)。このあたりのことはもう少し論を深めたいところなのですが、長くなるので一旦切り上げまして、


とにかく構成が苦手、と思い込んで、います私は。と、こう歯切れ悪く書くのは、本当に苦手なのかすら、よくわかっていないからです。そうだな、正確に言うと、自分で構成したものが面白いと思えない、という経験を何度か繰り返してきた、ということです。


それはつまり、構成に取り掛かる前の(そもそも構成、構成、と言っていますが、それが一般的なそれとして、あっているのかもよくわかっていません)、もっと根本的な段階の準備を怠っていたからだと、今なら自分に指摘できます。そして、根本的な準備で見つけておきたいのが、3回目の投稿に書いた『もくろみ』です。『もくろみ』のようなものがあるのとないのとでは、次の作業が大きく変わる、と今は思っています。


脚本を、「思いの丈」をもってして書く方もいるでしょう。それも大切です。ですが私の場合は、それすらも『もくろみ』を持ってして扱わないと、ただウダウダ言ってるだけのものになってしまいます。『もくろみ』に相当するものは、人それぞれにピンとくるものがあるように思います。


これをちゃんと自分の中に持っていると、あるいは一緒に始める方々と共有しておくと、次の作業に移ったときに、仮に拙いものだとしても、そこになにか見るべきものがあるように思われるのです。


今も構成は苦手、と思い込んでおりますが、その前の準備をちゃんとしておくことができるなら、もう少しましな仕事ができるかもしれません。なので、散々不安なことを書いてしまっておりますが、どなたか、そこのあなたか、まだ見ぬ誰かか。またチャンスをください。よろしくお願い致します。


話がずいぶん逸れたような気がします。電影少女の話でした。あの作品の場合、大きな構成は、監督やプロデューサー、脚本家の皆さんも交え、全体でコンセンサスを取りながら進めていき、各話の構成を、私を含むその話の担当になった脚本家が立ち上げ、他の方が立ち上げた話については、すぐに私の手が回らなければ台詞も起こしていただき、私がすぐ取りかかれるタイミングなら私の手で台詞に起こして、初稿にします。そこからまた、監督プロデューサーを交えた会議が繰り返し行われます。いずれの話も、最終的に私の筆を入れて決定稿、ということにさせていただいておりますので、台詞などに不備があればそれは私の手落ちです。もちろん、現場で大切な気づきがあり、台詞が変わることだってあります。


第4話の場合、14稿まで書き直し、そのあと決定稿になっています。その途中のどこかで私が引き継いだことになります。いろんなケースがありますから、一概にどうということはありませんが、14稿ってさっき思い出して、けっこう書き直しているなあと思ったのですがどうなんでしょう。ただ、細かい誤字脱字も含まれますので、全ての書き直しが大工事だったわけではありません。


話が長くなってしまいました。この辺にしておきます。明日には続きを書くと言って、もう幾星霜。明日こそ、前回の続きを書こうと思います。ずいぶんめんどくさい回り道をしていますが、それでも何かが見つかりそうな気配を孕んで進んでいます。『さみしさ』、『もくろみ』、それから私にとってどうしても切り離すことのできない言葉、『おかしみ』。このことを、執筆に入る前に深めておかなければなりません。

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