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劣等コンプレックス

最近わけあってまた「嫌われる勇気」を読み直している。

傷を負った人の語る「あなたにはわたしの気持ちがわからない」という言葉には、一定の事実が含まれるでしょう。苦しんでいる当事者の気持ちを完全に理解することなど、誰にもできません。しかし、自らの不幸を「特別」であるための武器として使っている限り、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。

僕が17歳の時だったかな、父親の不倫が原因で両親が離婚した。僕と妹は母方に引き取られて育てられた。父親は母親に暴力を振るったりもしていて、心の底から軽蔑する存在だった。

両親の離婚が決まったときの僕は「心の底から毛嫌いしている父親と縁が切れる喜び」を感じると同時に、「多感な思春期に両親の離婚を経験する悲劇的な運命」に少なからず酔っていた。「仲良し家族でぬくぬく育てられたお坊ちゃんお嬢ちゃんとは違うんだ」というような歪な自尊心を抱いていた。まさしく、アドラー心理学でいうところの典型的な「劣等コンプレックス」だ。

何がきっかけで「その自尊心が歪だ」ということに気づいたのかは覚えていないけれど、ある時からその意識は大きく転換した。両親の仲が良くても悪くても、それは相対的な違いでしかない。そして誰だって相対的な違いの中で生きている。父親の稼ぎが良いのか悪いのか、母親の料理が上手なのか下手なのか、その違いは果たして「優劣」という観点で捉えるべきことなのだろうか。

「両親の仲が良い」という話を聞くと、若い頃の自分だったら「道理でおめでたい人間なわけだ」というような態度を取っていたかもしれないけど(我ながらくそ感じ悪い)、ある時期を境に「それはとてもいいことだなあ」と素直に羨ましく思うようになった。

両親が離婚しているから結婚に良いイメージを持てない。僕自身、そういうことを何度か口にしたことがあるけれど、ある程度の年齢に達してから「それは果たして本心なのだろうか」と自分に問いかけることが多くなった。そんなことは関係がない。少なくとも両親が離婚したことによって、僕が人生の中でどのような女性とめぐり合うのかは規定されない。規定されることがあるとすれば、僕が巡り合った女性に対してどのようなイメージを抱き、どのような態度で接するか、ということだ。

それは両親がどのような人間であるかに全く関係のないことで、僕が自分自身の力だけで変えられること、変えるべきことじゃないだろうか。

そんな風に歳を重ねてきた自分にとって、アドラーの考え方は「そうだよね」と自然にうなづけることが多いし、自分自身で確かめてきたことではあるけれど、同じように考えている人がいるということを知るだけで力になる。


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