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ポートレート考(1)

被写体が人間であるからこそ写せるものがあるんじゃないだろうか。などということをよく考えるのだけどうまくまとまらない。

時間も温度も空気も写真には写せない・・・本当に写せないだろうか。

キラキラした笑顔もかっこいいポーズも悪くない。そういう写真が嫌いなわけでもない。でも人間はお飾りの置物じゃないし、何より「もう二度と訪れない"今"を切り取る」道具を使って、後から再現できそうな「絵」を撮ることに余り意義を感じない。

だから美しいポーズで、美しい表情で、じっと止まってはいチーズ、ということを僕はしない。通常、ポートレート撮影ではカメラマンがシャッターを押すごとにモデルが表情やポーズをくるくる変えていくけれど、それさえ余計なことだと僕には感じられる。

自分が撮ったSHAYちゃんの写真を眺めていてふと思った。彼女にはスイッチのオンオフがあって、それが如実に「目」に現れている。それは確かに「作られた」表情だ。でも僕はオフの方の瞳も好きだ。

おそらくSHAYちゃんに限らず、多くのモデルさんがその人なりの「撮られるときの表情」を持っていると思う。それは普通のことだと思うけれど、でも僕はそれを取っ払ってしまいたいと思っている。

それは「映画的な」という僕がこれまで意識してきたベクトルと、一見真逆の方向性に見えるかもしれない。でも僕は「演技をする」ということは「そう見えるように振舞う」ことではなく「実際にそう感じる」ことだと思っている。

つまり、例えば悲しい場面であれば、演技をするとは「悲しそうな表情をすること」ではなく、「実際に悲しいという感情を抱きそして己の最も自然な方法でその悲しみを表す」ことだと考えている。この考え方はジョン・カサヴェテスの影響を受けているかもしれない。

だから演技には唯一絶対の答えはない。人の数だけ答えがある。「無表情こそが悲しみの表現」という人もいるかもしれないし、それならそれで構わない。

これまでも僕は「昨日食べたラーメン美味しかったな」とか、何か日常的なことを考えながらカメラの前に立ってほしい、ということをモデルさんに伝えてきた。それが一番簡単な「演技」のアプローチだと思ったから。

でも実際のところ「映画的な」というのは僕の目指すゴールというよりは、そのゴールを分かりやすく説明する用語に過ぎないのかもしれない、という気もしている。

模索は続く。

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