見出し画像

ソドムの市

[2008年9月13日の日記]

学生時代、先輩から「ソドムの市が何しろヤバイ」という話を聞き、それ以来気にはしつつも、実際に観たのはそれから 4~5 年は経ってからだったと思う。そして想像していたより遥かにヒドイ内容に吐き気さえ覚えた。パゾリーニという監督に対する強烈な先入観、および嫌悪感がその時に植えつけられた。

だがその後、ナンニ・モレッティの「親愛なる日記」を見て少し考えが変わる。このドキュメンタリーともフィクションとも取れる映画の中で、モレッティはパゾリーニに対する思いを馳せ、パゾリーニが殺された場所にバイクで赴くというシーンがある。

モレッティとパゾリーニ、同じイタリア人でかつ映画監督、それ以外の共通点は僕には思い当たらない。作風が似ているということもないだろう。一体どうして?モレッティはパゾリーニをリスペクトしているのだろうか?「ソドムの市」だけでは分からないパゾリーニの魅力が何かしらあるのだろうか。

そこから「他のパゾリーニ作品を観てみようか」という気持ちが少しずつ芽生えてきて、「アポロンの地獄」や「豚小屋」などを観てみた。けれどどうにもピンと来ない。が、いつしか「ソドムの市」を観た当初の嫌悪感は薄らいでいた。

そして先日また「ソドムの市」を観た。前回と同様、やはり全編を正視することはできなかった。

とにかくそこに立ち込める空気が異常だ。この俳優たちは本当に演技をしているのか?と途中で分からなくなる。「ソドムの市」の撮影終了後、パゾリーニは出演している俳優によって殺害された。そのエピソードを知っているからそう見えるのだろうか。でも最初に観たときはそのエピソードを知らなかったし、そのときと大きく印象が変わるということもない。「これは映画だ、作り物なんだ」と自分を納得させるのが難しい。

ただ、いつしか「嫌悪感の対象」が変わっていた。映画の中で描かれる異常な光景の連続に対する嫌悪感は変わらない。ただ以前はその嫌悪感が、「監督のねらい、意図、目的」に対する嫌悪感として直結していたけれど、それがなくなった。「パゾリーニはなぜこのような映画を撮らざるをえなかったのか」という「疑問」に変化した。

なぜ、こんな映画を作ったのだろう。なぜ、このようなやり方でなければならなかったのだろう。分かるような気もするし、分からないような気もする。

もう一度この映画を観るかどうかは分からない。でもこれからもパゾリーニは、僕にとっていつまでも「何か引っかかる」監督であり続けるような気がする。

この日記から十年余。「ソドムの市」は観ていないけれど、機会があればまた観直してもいいかな、という気持ちになっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?