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Slow Culture


ヒマだからブログでも書くか。 

京都市立芸術大学のギャラリー@KUAで先日開幕された展覧会に行ってきました。京芸出身の人たちを中心に若手作家を集めた絵画の特集展「Slow Culture」。よく知ってる作家もいれば、初めて見る方もいて、何よりそのセレクトがユニークで、告知が出た時から楽しみにしてた。だって最近楽しいことが全然ないんだもん。アートぐらいしか、面白い事ないんだもん。 

まぁそれはさておき。 

すっごい楽しめました。これは、無料で誰でも出入りできる市民ギャラリーの範疇を超えていると思います、内容が。出身校だからヨイショしている訳ではなく、作品が良いとか悪いとかそういう話でもなく、展覧会としてのノリが、乗りに乗っている感じです。無数の文脈が交差しています。特に絵画が好きな人にとっては思うところが多い。個々の作品のパワーが薄暗い会場の中で多様にひしめき合っていました。騒がしく、ゆるやかに!まるでクラブ空間みたいに。行ったことないけど。 

だから、ノリで楽しめるところもあるけど、それだけでは無く。個々の作家がやっていることというのは全部違っていて、僕なりに言語化できることもあると思う。 

特に気になった作品について。 

堀さんの作品は一見オーソドックスな具象画だけども絵画の手癖がまったく付いていない、瑞々しさを感じる。普通の作家は、絵を描くとき、他の絵が頭にあるはずなんだけど、それは絵を絵で描こうとしているからで、模範的であれ破壊的であれ、ただ見た目を良い絵にすることに捉われている。けど堀さんの絵を見ても、すぐには他の作家の影が見えない。縦長のキャンバス三枚にフィギュアを描いた作品はホックニーのようだけど、巨大なサノスのレリーフは説明できない。じゃあ何かと言うと、描くという行為自体に主眼がある。行為というか、テクニック。いや、投影法と言うべきかな。だから、絵画の色気に浮かされることなく、タッチは抑制されフラットにもならず、色彩は調和も破綻もせずにイメージの固有色を抜き出そうとする。そのやり方は古典的な写実でも無く、フォトリアリズムとも違う。モニター越しのような彩度の高い光の捉え方はCGメイクを思わせる。モチーフもCGキャラクターのオモチャであり、その体の鏡面には画家自身の虚像が写っている。背景はビーチだけどハリボテの風景。風景画かと思えば、その中の奥へと世界は広がっておらず、なだらかな光学的な表面が冷たくメイクされている。これはフィギュアを描いたキャンバス作品の方だが、サノスの作品もモチーフの虚像をいかにして投影するか、というユニークなプロセスになっている。 
描くという行為、その投影法に向き合った作品。その純粋さ故に、古い絵画のまどろっこしい問題から解放されている。矩形のフレームや、色彩均衡、デッサン、構図の問題や、油絵の具という画材の手垢、そういった前提がこの絵の前では思い出せない。CGを見るときにその作り方を考える人がいないように。 

木村さんの作品は、絵画のレイヤーについての研究に思える。初めてVR作品を体験したが、絵画がVRの設計図のように感じ、また逆である可能性も感じた。VRの仮想空間内は、白いバックにストロークや線描、色彩のシルエットが浮遊しており、そこはキャンバスの内部世界を3次元に変換したものだった。これは現実の絵画の知覚現象をVRで表現したものであり、イリュージョンの消失した絵画の魂を復活させる装置だと感じた。この感覚は、正直なところ絵を描く人間にしか分からないニッチな領域かもしれない。
例えば落書きのようなキャンバス画が隣にあるけど、それは落書きを描いたものではない。その落書きによって絵画の中に見えない霊体を掴み出したものなのです。って、余計意味不明になってきましたが、窓というのはそこに映るものがなければ窓になりません。窓の奥の景色だったり窓ガラスの汚れだったり。その映るものを最小限描き、見えない階層を作るのが絵画のイリュージョンなんです。だからそれをやっているキャンバス作品なんだけど、正直それだけだと辛いものがある。何故かって、いくらやろうがそれは結局キャンバスという布であるから。だから、木枠からキャンバスを少し剥がしてある。この問題は写実的に描き込めば良いという話ではなく、そんなことをすればそれは写真一枚になってしまい、結局はペラペラです。だから今イリュージョンを作ること自体にそもそも無理があるのだが、それをVRと補完し合うことで、新しい知覚の喜びを生もうとしている。それがどんな道のりになるかは分からないけど、とにかくチャレンジしている作品です。

思うに、二階の部屋は、物質と知覚がキーになっていたように思います。
谷本さんの陶器の作品も一階に置かれていたものははっきりとイメージが描かれていたのに対して、二階のものはドロドロにフォルムと色彩が釉薬に溶け質感を出していました。そして川田さんのフレスコ作品は、絵が描かれたボディーが生々しく古びた刀剣のようにその姿を晒していました。

それで今度一階の方は、イメージと言語的な作品に思えて、個々の人間の姿が見えました。
NAZEさんの大作壁画は混沌とした世界を彷徨うように自分のリズムで歩いていて、磯村さんの流れるプール?噴水はそのまま流動的な生き方=変化する絵画を表しているよう。さりげなく置かれた渡辺さんの絵は名も無き記憶の断片で、何かを思い出そうとするけど何も無い。谷原さんの作品は人間の美醜の最先端をスパンコールで描いていたし、永井さんの墓の絵は自身の繋がりを恐怖のシンボル画にしていた。皆藤さんのペインティングは呪術的な現代の装飾画のようだった。吉田さんは人間関係の言語化できない一瞬をスクリーンに焼き付け、松平さんは日本画の正統な技で今を生きる人間を描く挑戦をしている。

絵画という大枠の中では一応まとめられるけど、作家それぞれにプロセスが違い、別方向を向いている。し、たぶん生い立ちも生き方も違うのだろうなと思う。そこまで思いを馳せる楽しみ方も出来そうだけど、ただ、作品のグルーヴに身を任せるのも気持ちが良いよね。

おわり。

りんく
https://gallery.kcua.ac.jp/archives/2021/6429/

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