絵を見よう その4

今日は無性にカレーが食べたくなったので行きつけのカレー屋へ。「コロッケカレー」を食べました。カレーは素晴らしい食べ物です。なにより早く食べられますからね。スプーンで全部いけるのがいい。濃厚なファストフードです。

そういえば絵を見るときの話をしていました。絵を見るときは、じっくり頭で考えずにただ「筆致」を瞬間的に感じるのがよい。そうすれば気持ちいいところへ飛んでいける。感覚を様々なところへ連れ去ってくれる。ハイになれる。だいたいそんな話でした。

つまり見てただ感じればよい。そんなことを言い出すと、なんだかアホっぽいですよね。理論的ではない、責任逃れで、難しい話を放棄しているように映るかもしれません。決して、そうではなく、むしろ一番難しい問題なんです。実に複雑で、専門的な、しかし規模の大きな問題です。なぜなら感覚の話は人間全部に関わることだからです。

ちょっとお試しで専門的な話を猛スピードでしてみます。

様々な感覚を引き起こす絵=「筆致」を分析してみる作業です。絵の具か何かが画面の上に乗っている、その状態をどう見るか。大きく分けて三つ。色価、レイヤー、イメージです。本当にとりあえずざっくり分けて、です。

色価とは、色に関する強弱のこと。ひとつ目に、明暗。明るいか、暗いか。次に、彩度。色の鮮やかさ、純度です。最後に色相。赤青黄色、色の違いです。ひとつの色を見るとき、この三つが混ざり合っています。色価は非常に強い情報です。絵を見たとき、まず初めに色価の差を目は感じとって、視線が動き、それが遠近につながります。美大生なんかが鉛筆デッサンをやらされるのはこの色価をコントロールするためです。目の前の緑と赤、どちらが強いか弱いか、色価の計測と設定の訓練です。形を写し取るのは実はそんなに重要ではない。

次にレイヤーですが、これは以前から何回も出てきた言葉ですね。絵の具が乗っている透明な面のことです。僕の最も好きな問題です。例えば鉛筆で紙に線を引いてみる。すると線が面の上に乗っている、という位置関係が生まれる。図と地という言い方もできますが、点と面と言った方が良いかもしれない。これは一見物理的な関係に思えますが、実は観念的な関係と複雑にリンクしています。線の引き方をちょっと変えてみる、強くしっかり引いたものと、弱々しく引いたもの、同じ紙の上に鉛筆は乗っていても、2つの線が乗っている面、レイヤーの位置は異なります。どの面にどの点が乗っているか、その微妙な差を目は瞬間的に感じとり、視線が動き、遠近になります。

最後のイメージは、一番わかりやすい。そのまま、筆致が「何か」に見えることです。記号であろうが、三次元の空間であろうが、何かのイメージに見えることです。イメージも強弱を持っています。顔があれば人はそこをまず見ます。特に目に始めに視線がいく。そうして興味のままに読み取っていき視線が動いて遠近感を生み出します。パースペクティブというのは、ひとつの方法論であって遠近そのものではありません。

ひとつの絵にはだいたいこれらの要素が複雑に絡み合っています。しかし、言葉で、現時点で、とりあえず言えるだろうこと、に過ぎません。実際はもっともっともっと複雑です。それぞれ別個の肉体と記憶、文化、心を持った人間が絵を見るわけですから。そもそもこんな風に要素に分けて語れることではないかもしれません。しかし、どれか何かを語らないと何も始まりません。けれども、にも関わらず、目は一瞬のうちに、絵のすべてを感じとります。ですから、ひとつには、そういう謎を紐解くために長きに渡って絵の歴史が積み重ねられてきたわけです。

例えば色価は強烈な力を持っていて、また非常にデリケートなバランスで成り立っています。それ自体が絵のミステリーなんです。多くのいわゆる抽象絵画は色価の謎を解き明かそうとするものです。色価の甘い罠に立ち向かう画家はたくさんいます。一度入ったら抜け出せない、蟻地獄のような世界です。だけどしかし、絵というのはさっき言ったようにとてもひとつの要素で成り立つものではない。色彩だけを見ることなど不可能です。色彩であり絵の具であり形を持ったイメージなのです。蟻地獄から抜け出せても、今度は別の困難がすぐに待ち構えているわけです。

さてそんな話のあとで、様々な感覚を呼び起こす気持ちのいい絵とは、どういうものか。ひとつには、遠近の揺さぶりがあります。遠くが近くなり、近くが遠くなる、つまり身体に運動を錯覚させるということ。それは視線をぐるぐるぐると移動、往還させることによって、擬似的に引き起こさせます。視点が移動するのは、高いところから低いところへ、低いところから高いところへ、差を乗り越えていく時です。その差とは、さっきお話しした、色価、レイヤー、イメージの三つが関係しています。ですから、それらのパワーバランスをコントロールすることが、絵をコントロールすることに直接つながるわけです。これを構図といいます。画家の腕はそこに現れます。

以上、ものすごく大ざっぱにお話しさせてもらいました。お話ししたようなひとつひとつの絵の問題はそれだけに没頭してしまっている画家もいるくらい、重要な問題です。しかし、そういう問題は全く重要ではないとも言える。一見、人の暮らし、人生には関係のない問題ですよね。ですが、絵というものは紛れもなく「筆致」から出来ており、そこには実に小さく複雑で様々な、しかし決定的な問題が山積みなのです。画家であれば考えずにはいられないことなのです。

あんまり専門的な話をし過ぎると嫌がられてしまいそうです。さっきはただ見て感じれば良いと言っていたのに、こんな話をしてしまってはただ見て感じることなど逆に難しくなってしまいかねません。けれども!絵の世界というのはそんなに楽観的な世界じゃないんです。終わりなき険しい山だったり、砂嵐で何も見えない砂漠、真っ暗な海の底だったりするのです。しかし、もし少しでもそんな絵の世界に興味を持たれたら、今回お話しした問題について自分なりに考えてみるのも面白いですよ。今まで以上にもっと楽しく絵を見られるかもしれません。

けれどもやっぱり、まずは絵に身体をただゆだねてみてほしいです。

アンリ・マティス「肘掛け椅子」▶http://matome.naver.jp/odai/2135617842448742801

マティスの晩年の絵はただただ「気持ちがいい」。色彩も筆の動きもモチーフもぜんぶが溶け合っている。気が抜け切っている。身体で描いている。頭で色はこう、筆はこう、構図は、、、など一切考えていない。腕で考えている。こんな気持ちのいい絵に小難しい理屈は無用です。無用なんだけれども、考えずにいられないのが悲しい僕の性質ということですね。いや、別に悲しくはないかな?うっとうしい!

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