絵を見よう その2

椎名林檎「加爾基 精液 栗ノ花」を聴いています。これは冬のアルバムですね。12月っぽいんですよね。一番好きな曲は「おこのみで」です。

先日久々に絵を買いました。家に連れ帰ってきて茶紙で包まれた絵をほどくと興奮してしまい独り言連発してしまいました。自分の家に置くとまたより愛しく見えてくるんですよね。毎日愛でたいと思います。

前回ベラスケスの絵の話をしました。その中で僕は「筆致」「筆致」「筆致」と連呼していました。僕はかなりの筆フェチなんです。むしろ「筆致」しか見ていないんじゃないか。「筆致」と読んでいるものは筆で描いた跡のことです。筆じゃなくても、鉛筆でもなんでも手で何か画面に跡を残せばそれが筆致です。筆致とは描いた跡、絵そのものです。しかし普通は「描かれているもの」をまず見る方が多いと思います。でも僕は「描かれているもの」より「描いた跡」「筆致」を見ます。その方がずっと直接的なんです。

これもベラスケスの絵。初期の絵なので習作っぽいです。リアリズムの絵です。グラスの輝き、水瓶の表面についた水滴、その細部の質感だけ薄明かりの中で妙に浮いて見えてきます。壷だけ切り取っても絵になりそうです。対して奥の人物は消え入りそうです。登場人物よりも、目の前の「物」を殊更大切に描いている。筆の密度と丁寧さ、神経の使い方がちょっと異常でしょう。目の前のありのままの現実に対する画家の真摯な眼差しそのものが、画面に置かれた絵の具、画家の筆の動き、「筆致」から見えてくるわけです。僕にとっては、描かれている「もの」を見るだけでは「絵」を見ているとは言えません。絵とは文字通り絵、描いた跡、手の痕跡そのものなのです。「もの」に見える以前にまず「絵」そのものなのです。それを僕らの目はわかっている。わかっているから描かれている「もの」ではなく「絵」とまず呼ぶのです。だから最初に「絵」そのものを見るということは、「筆致」を見ているということなんです。

だから、絵とは「筆致」だから具象画も抽象画も関係ありません。何を描こうが、何も描いてなかろうが、全部、筆の跡、「筆致」が絵そのものです。

松本寛庸さんの絵▶http://www.artbrut.jp/news/2014/01/000043.html

大好きな絵を描く画家です。91年生まれの作家です。紙の上を埋め尽くすように、しかし非常に軽やかに描いている、ただ、描いています。「筆致」がそのまま絵のすべてになっている。描くことの積み重ね、その楽しい時間の終わりに、爽やかな風が吹く一個の景色が立ち上がっています。無数の小さな光、、、、前回のベラスケスの4番の絵と同じですね、宝石のように輝かしい筆致です。なんとも可愛らしく、いじらしく、何より非常に美しく、爽やかで軽やかで、しかし一方で決定的に儚く、その潔癖な美には仄かに死の匂いもする。本当に4番のベラスケスと似ているかもしれません。そう思いませんか?あの絵からは潔癖な美と死の匂いがします。対して松本さんの絵について死の匂いというのはちょっとおかしい気もしますが、僕はなんとなく儚さを感じてしまいます。特に画像貼らしてもらってる絵のシリーズは感じてしまいます。でも死の匂いという大げさなものではなく、「放課後」とか、「ゆうぐれ」とか、そういう儚さですね。温かみがある。

話逸れますが「ゆうぐれ」っぽい絵は好きです。「ゆうぐれ」を感じる絵って確かにあるんですよね。これは本当僕だけの感覚かもしれません。

さて次はどんな絵をご紹介しよう。。。。現代の作家だとなんとなく気恥ずかしいんですよね。特に同世代は。秘密にしたいっていうか。。温めておきたいというか。。悩み中です。ただ、だらだら紹介するのもなぁ。このコーナー自体悩み中です!


そういえば「ゆうぐれ」、こんな作品がありました。


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