◯小学校作品展を終えて◯

下京涉成小学校作品展が終了しました。

僕が滞在制作を行っている小学校の子どもたちの作品展に参加させて頂きました。子どもたちや保護者の方々はもちろん、限られた時間でしたが学外の方々にもお越しいただき、皆さまご来場ありがとうございました。ご協力頂いた先生方にも感謝申し上げます。

初めて、鑑賞の授業にも参加させて頂きました。子どもの反応はすごく楽しくて、熱心に感想をメモしてくれていました。どんな感想を書いてくれてたか気になるところです。静かに聞いている子もいれば積極的に見てくれる子もいました。興味のある子に対しては、こちらも白熱してしまいました。

ごく短い時間でしたが、何か子どもたちの心に少しでも残ってくれていれば幸いです。何か芸術の種のようなもの。芸術というか、自由とか、希望の種のようなもの。大人になった時にこの展覧会のことをたまに思い出してくれたら良いなと思います。それで何か気持ちが楽になったり、落ち着いたり、高まってくれたらいいなと。願っています。

僕が小学生の頃は、学校サボったりしてましたね。すっぽかして市の図書館に行って、カブトムシをチャリに乗せて、旅してました。外で遊ばない子どもでしたね。休み時間は図書室か、ずっと女子とおしゃべりしていました。友達は少ないけどいましたよ。成績はよかったです。美術も好きでした。あ、美術じゃなくて図工か。。図工の時間は、なんでも自分なりに取り組みました。図工って正直な科目で、しっかり自分なりに考えて手を動かせば、必ず結果が出ます。僕にとっては完全に答えのある科目でした。こだわりを持って工夫すれば、そのまま形に現れる。はっきり明快で、安心感のある科目でした。

図工は何かと一発逆転のチャンスもあるし、好きでした。図工が嫌いな子ってあんまりいないでしょう。それが学年が上がって「美術」になると、また状況が変わるんですよね。僕はなんとなく、ずっと図工が好きなまま、図画工作の気分でここまで来た気がします。しかしそれは僕のせいではありません。この国で小学校の図工という科目があり、担任の先生が考えた授業があり、そして通っていた絵画教室の先生がいて、高校では美術部の顧問の先生がいて、なによりそれらを全部許して与えてくれた両親がいたから、そういう態度でやってこれたのです。言わば甘やかしです。

僕が今こんな、作品なんか作っているのはある意味甘やかしの結果だけれど、ただ僕はその頂戴した甘やかしを今度は作品つくること、発表することで他人に配りたい。楽な気持ちを注ぎたい。それこそ隅々まで。特に子どもたちにはとにかく、自由が許されているんだ、ということを見せつけなければいけないと思って、今回少しそんな思いで臨みました。少しだけですが。許されている、ということが重要で、だから大事に使い切らなくてはいけないのです。二度とない自由です。かけがえがないのです。人生は一度きりで、すべての瞬間が、子どもの時間も一度きりです。

また作品展の内容や出品作については次回に。、。、

終わりに、作品展会場に置いてたポートフォリオに挟んでた文章を載せます。


展覧会に寄せて
ぼくらの「芸術」

こちらの小学校に入ってまもなくしたころ「芸術って何ですか?」とある生徒さんに尋ねられました。あまりに突然でしたので、僕はうろたえてしまいました。しばらくしてから「絵はすべて芸術です」と答えました。しかし彼女はあまり納得していない様子でした。

僕の考えでは絵はもちろん、人が作ったもはすべて芸術です。しかし、彼女の疑問ももっともだと思いました。理念はすべて芸術だったとしても現実的には、芸術と、そうでないもの、に分けられています。ある画家の絵は美術館に入り、またある絵は市場で何千万という高値で取引される。美術の教科書に載る絵と、そうでない絵があります。みんなと同じ人間が描いた絵にも関わらず差別され特別なものとして扱われるのは何故か。芸術とは何なのか。素朴な疑問だと思います。

芸術は流動的です。たとえば今では世界的な芸術となっている浮世絵も当時は安価なプリントであり庶民の楽しみでした。その浮世絵に感化されたゴッホが描いた絵は生前ほとんど売れませんでした。しかし今ではゴッホの絵は何十億という価値がついています。そんなアレコレを考えていると結局、何が「芸術」かは時代が決めることだと言えるかもしれません。作品が良いか悪いかはその時代の人々の判断にすべて委ねられています。

僕の絵を見たある男の子に「良いのか悪いのか僕にはわかりません」という感想をもらいました。芸術、特に現代アートとよばれるものは「わからない」とよく言われます。それは今ある「芸術」に収まらないからだと思います。これは僕の考えですが、現代アートは「芸術」から芸術を取り戻す運動だと思います。「外」の世界へと向かわなければなりません。

青い空や、道端の一輪の花が美しいのと同じように、誰かが描いた一枚の絵だって美しい。特権的な「芸術」を皆と同じ地面の上に降ろして見せることが、僕の目指すところです。「芸術」という名を捨て去って、時代の良し悪しも纏わないで、それでもなおすべての人々にとって美しいものであること。そんなことは夢のまた夢ですが、僕は日々そんな未来を思い描いています。

子どもたちは何が美しいか自分たちで判断出来る力と自由を持っています。日々かけがえのない幸せな時間を過ごしていると思います。ぜひ色々自分なりに感じて、オリジナルな感性を作り上げていってもらえたらと思います。

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