制作病

何かすごい絵が描けるんじゃないかといつも思っている分、アトリエを後にする時の落胆は毎回大きくて、それもそのはず、全てが漠然と出発しているから終わりがあるはずもなく、ますます自分でも何がおかしくて何が合っているのかすら、わからなくなる。この傾向はかなり前まで、悪いことだと考えていて、制作病のようなもので、たぶん、それって他人にはどうでもよいことだから、僕は絵を描くときに病気にならずに健康に自分でいかに気分を良く保つか、そのことを核に据えてきた。例えばデッサンなんかでよく、何時間もかけて描いているけれど、昔から最後の方は無駄な時間に思えてならなかった。確かにめい一杯手間暇をかければ良くなっていくというのは当たり前のことだけれど、果たしてそれが自分の気持ちの問題なのか、絵の問題なのか、それとも絵を見る他人の問題なのか、わかったもんじゃない。たいていは、自分自身がただ一生懸命でいたいということでしかない。絵を描く人は絵を描く時ただ絵に向き合っているけれど、本当にそれが絵になり人に伝わるのか、僕は懐疑していた。

答えがないから、答え合わせもできない。はぐらかしの世界。それを愛している人も多いけど、僕は自分がやるならば、明確に出来上がるものが欲しかった。作り方のようなこと、レシピがあれば作品ができる。感覚?そんなものが見えるのだろうか。。選ぶだけで良いんじゃない。僕の制作はそんな感じできたような気がする。最近、絵画教室でやってる色々な試みは、その延長線上にあります。アバウトさを取り除いて、制限をかける。デッサンでいうと、本当は5時間かけるところを、5分でやる。鉛筆をハリガネに変えたり、紙をミニサイズにしたり、どうにかやり方を探ってみる。もちろん5時間かけると、絵の可能性がどんどん枝分かれしていき、それぞれ色々な絵が出来上がるはずだから、見ている側は面白いかもしれない。自由にやらせる。僕だって本来ならばそうしたい。色んな絵が見られるから。しかし、それはただの結果であり、本人にとって成果と言えるものになっているだろうか?

絵を描く時、僕はコントロールしたいと願う。画材、色、かたち、筆、、等々を自分で選択し、その成果を確かめたいと考える。僕の絵はきちんと描けているか?誰かに伝わっているか?すごく気になる。だけど、全部いっぺんに考えるのは難しいので、絵を構成している要素を分けて考える方法を探し見つけた。僕がやっている絵画教室では出来るだけその構成要素ごとに分解して把握しやすいように単品で取り組めるように気をつけている。もちろん悩みながらやっています。もう一つ気にしていることは、つまらなくなってしまわないか?自分で選んで自分の絵にすることができているか?ということ。やり方を単純にすれば絵も単純になるとは思いません。むしろ逆の場合が多い。シンプルな問題を与えてお手本は見せないのがいいのではないか?自分で選びコントロールして自分の絵を作って欲しい。そう願っています。

本題はここからで、こんなにダラダラ書いてしまったけど、今の自分自身の絵に対する気持ちは、シンプルさとは真反対なものになってきました。答えのなさに苦しんでみたい。Mっ気のようなもの?毎回自分の絵の下手さに直面しています。というより、俺はこいつをどうしたいのだ!?というイライラです。ゴールがわかってないんだから、どうしようも出来ないわけです。誰に向けて描いているのかすら、想定していない。ただ漠然と、良い絵が描きたいと思っている。それもめちゃくちゃに良い絵。

アートっていうのは懐疑的でなくちゃいけないんです。良い絵が描きたい、とか言い出したら、終わってるんです。良い絵って何だよ、トンチンカンなこと言ってんじゃねえ、言葉の意味もわかってないくせに、って、アートの神が突っ込んでくるんです。普通なら。だけど、アートである必要も別にないし、僕の感情として、なんか良い絵が描きたいと思っている。でも、どうしていいかわからない。そりゃ今までの積み重ねからやれることはありますよ。でもそれをこなしてその先に何が出来る…そういうわけで今は、同じ絵ばかり超スローペースで描いています。一枚の絵を昨年からずっと描いています。大して大きくもない絵。期限は死ぬまで。ああしたりこうしたり。油絵はスピードに制限をかけてくれるからそういう意味ではいい。しかしそんなことで良くなるのか??問題は、そこではなくもっとシンプルなのでは????良い絵って誰にとって??アート病が抜けてなくて疑問が時々湧いてくるけど、無視して、今は制作病に戻れるよう、ゆっくりゆっくり筆を置いたり置かなかったりを、2対8くらいでやっています。

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