見たもの整理

この前見たもの。ヴォイスギャラリーで松本和子さん個展▷京都文化博物館で新鋭選抜展と塩田千春さんの展示▷風呂敷専門店「むす美」▷アートゾーンで水木塁さん個展。

見たものをブログに書き留めて残そう。

ファン・ゴッホ展@京都近美も見た。

昨年末に遡ると、岩名泰岳さんの個展@ギャラリーあしやシューレも書けていなかった。あと、芝田町画廊で見たmomocさんの絵。あと、波さがしてっからで謝花翔陽さん。それからあとは、いろいろ見た気がする。

ずっとブログを放置してた。展覧会を見たあと、ああ書こうかなと思うのだけど、そのままになっていた。その時の気持ちをすぐに忘れてしまうから書いて残さなきゃならない。

松本和子さんはフレスコをやられていて、僕と同じ小学校のアトリエで制作されている。だから作品制作の現場を知っているわけですが、でも展示を見ると不思議な新鮮さがあった。フレスコの持つ伝統的なイメージ、作品の歴史、文脈に依存しない、独自の絵画を追及されていると感じた。例えばフレスコは生乾きの漆喰の上に顔料と水のみで描いていくので色が白っぽく乾き、タッチは漆喰に混ざり吸収されてぼやけてしまう。それだけ聞くと欠点のようにも思われるが、それらフレスコという画材の特性が他にはない絵の空間表現に繋がっていた。実際にヨーロッパの古典フレスコを目にしたことがないのでわからないけど、ひょっとするとこれは松本さんだけが意識的に開発されている新しいやり方なのではないか。ストラッポという描画層を剥がすやり方もこれまで絵として意識されてこなかったフレスコの隠れた姿のように思う。そういう、オリジナルなやり方というものは本当に画材と親密に向き合わなければ出てこない。最近僕が油絵をやり直していることもあって、そう思いました。

新鋭選抜展は、よくわかりませんでした。

アートゾーンで偶然目にした水木塁さんの個展は、めちゃくちゃ、クールでした。アートゾーンはふらっと入れて、毎回尖った作品に出会えるのでとても良い施設です。(この前伺った時はVRの作品があった。あれも攻めてた。)ただ、めちゃくちゃカッコよかったんですが、外国人の作品かと思いました。そこは難しい問題かと思います。僕が作品を作ったり他の作品を見る時、最近何か意識してしまうのは何人が作ったものかということです。かといって、「日本人」とも言いたくない。「淡路島人」ぐらいのローカルな感じ。。そこまでいくと伝わらなさ過ぎる気がするけど、もっと何か、暑い寒い、気候だったり、人間の気質?女か男か、何色の服を着ているか、、そういう感じ。よく、わからないけれど。大事な気がします。

風呂敷専門店「むす美」はみずいろ絵画教室に来てくれていた方が働いていらっしゃるお店で、昨年オープンしたばかりの珍しい風呂敷だけの専門店です。場所は三条通り、イノダコーヒーの隣。色んな風呂敷があり楽しいです。持ち込みでプレゼント包装のサービスもあるらしい。のぞいてみてね。

あと、そうだ、ファン・ゴッホ展。ちょっとボリューム不足な感じもしたけど、素晴らしかった。ゴッホの絵をもっと研究しようと思います。いつもウィキペディアでゴッホ作品一覧を開いてる。最近は毎日ゴッホの絵を見る生活をしています。ゴッホは素描の人だと強く思います。

それから、岩名さんの個展、、!よかった。油絵、って感じがした。それも、日本人の、ある地域に住む、一人の人間の絵、という感じがすごくした。抽象画なのに。その感覚は、現代の日本の絵画ではまったく、失われてしまった、大変貴重な感覚であると僕は思いました。そして、個展のモチーフそのものが、失われた村の記憶!個展のタイトルは村の文集「七ツノ華」、今は亡き90年前の青年団の名前。すべてが完璧で、絵がとてつもないオーラを纏っている、ように思える。あり得ないくらいの緻密さです。一旦そう思い込んでしまうと、ライティングから、ご本人の立ち姿から、何から何までドラマチックに見えてくる。それは、ロスコの絵が現代に復活したようなもので、失われた絵画の力そのもので、僕にはそれくらいの衝撃を与えたのです。誰もそういう絵画の力と向き合っていないではないか。絵はもはや、ネットの画像か、もしくは小さな壁を飾るインテリアに成り下がっている。そういう社会にあって岩名さんの絵は特異な存在であると感じました。好きな画家をロスコと答えていた葛本さん(里山展の企画をして下さった方)にも見て欲しい。

波さがしてっからの謝花さんの個展は、意外にも失恋からの立ち直りがテーマでした。色々と話題が多い作品でしたが、その中でもアメリカへの憧れについてのお話が面白かった。僕も特に学生時代の作品なんかは、モロにアメリカ絵画への憧れを発散させたような作品を作っていた。周りにはそういうタイプがあまりいなかったように思う。で、それは今もそうで。分かりやすい感情や快感というものを、仮にもアーティストの癖して、なぜ露わにできないのか、不思議に思う。あ、ちょっと悪口。とにかく、気持ち良く、気持ち悪く、露悪的な、美しさ。バスキアの絵が出てきた時代を生きた方々なんかはピンと来るものがあるのではないか。僕は今は昔の作品とは違う方向に向いているけども、そういう分かりさすさ、みたいなことは忘れてはいないつもりです。製品ではなく、作品だし。特に、上品ぶった作品ばかりの京都のアートシーンにおいては中々お目にかかれない作品でした。また悪口言いました、すみません。

最後、momocさんの絵ですが、一枚僕の家にお迎えしました。絵をゲットするの、本当に楽しくて、思えば去年は割と絵を手に入れる機会が多かった。偶然なのか何なのか。僕は服も買わないしゲームも本も買わないし若者らしい消費活動をあんまりしてないけど、家が大好きだからそこに飾るものを選んで手に入れることに至福を感じる。やっぱり手づくりのものが良くて、その最たるものが絵だと思います。momocさんの絵は特に手づくりの絵という感じがする。他にも欲しい作家が結構いる。展覧会に行くとか、よほどのきっかけがないと実際に買うところまでいかないけど、こらから未来にはもっと違う絵の買い方があってもいいかもしれない。だって作家が作家でなくなったら、絵はもう手に入らないかもしれない。インスタやTwitterがなくなったらもう見れなくなる。その前に家に入れるべきだ。本当にその絵を見守っていくなら。一人、ずっと探しているけど見つからない作家さんがいる。あの時なぜコンタクトを取らなかったのか、悔やまれる。

↑上段一番右のは福士千裕(蚊に)さんの油絵。

というか、最近一日一枚のペースで油絵を描いているので部屋が絵だらけになってきてる。油絵、乾くのに一ヶ月くらいかかるので仕舞えないし、汚さないように高いところに飾るしかない。自分の絵が見えるとこにあるというのは制作にとって良い面もあるが悪い面もある。過去の絵が視界にあると新しい絵が過去作品のコピーになってしまう。意識的に、新しい気持ちで筆を持たなければいけない。

油絵ですが、作品一覧のアカウントを作りました ▷ https://www.instagram.com/kiyokata1990/

取り組む上で考えていることはあります。一つには、絵肌、という捉え方です。文字通り絵の肌です。それから色には重さがあるということです。光というものは存在しない、ことにする。左官屋になる。絵の肉体を作ることに専念しています。

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