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大津はええとこや。

久しぶりのブログ更新です。

大津に出かけてきました!

西太志さんと風能奈々さんの二人展を見てきました。大津駅から徒歩5分の2kw galleyさんで開催中でした。誰もが子どもだった時に感じてた痛みとか、優しさとか、怖さとか、そんな感覚をドローイングに描き出して、それをさらに絵画世界へとパワフルに、それに厳格に、出現させたような印象を受けました。

パワフルと表現したのは、素材の堅牢さによって際立っていた、ドローイングする意志の強さのこと。素材の堅牢さとは、丈夫さのこと。硬かったり、粘度があったり、扱いづらさとも言える。絵を描く際には、抵抗感が強い素材。西太志さんは油絵の具を荒いキャンバスに土のように擦り付けて使っているし、ドローイングを元に土で焼き物も作っている。スプレーについては軽い画材と言えるけれど、画布素材の垂直面を強調するようにタレを作っている。風能奈々さんは、画面をメディウムで覆い、描くこと=引っ掻くという行為の痕跡を残している。またメディウムには光沢があり視線を反射し邪魔していて、さらにフレーム側面を通常より分厚くしている。そのような扱いづらい素材を使ったり、あえて素材感を際立たせることで、逆にドローイングの姿を作品をきっかけに頭の中に見せようとしていると感じました。つまり、ドローイングというものが絶対的に頭の中に観念的な絵としてイメージとして存在していて、それが在る時、画家の手に降りてきて、素材の形を変え、その痕跡が作品となった。そういうロマン、画家のストーリーを伝える遺物としての作品。

厳格にという言い方をしたのは、そのような素材の堅牢さの上に印象付けられた画家のドローイングという物語を描きながら、一方では注意深く、絵画性をあえて避けているところです。絵画性とはイリュージョンのことです。イリュージョンとは、絵の中の階層構造のことです。まず色彩は、ほぼモノクロームで、というか素材の色という感じで、ほとんど放棄されています。構図についても、西さんはイメージをアイコンのようにど真ん中に描き、対して風能さんはバラバラに並列して描いています。また展示の方法も、極力ニュートラルに作品を配置しどの絵も見やすく構成されていました。絵という幻を見せないように注意を払い、あくまで画家のドローイングの遺物として、その姿のまま記録物として陳列されているように思いました。西さんの作品について、ドローイングを具現化した焼き物と、そのバックに背景となるように抽象的な油絵がセットで飾られていましたが、あの作品については、もはや絵画の中ではイリュージョは起こせず、絵画の外で、異なる痕跡の組み合わせから頭の中でのみ絵を想像せよと言っているように僕は感じました。以前から絵の中の登場人物を立体にしてバックに背景として絵を組み合わせて置くというやり方をされていますが、今回はより限定された形で立体と絵がどちらも抽象的なイメージになっていました。それらと関連して、2枚の異なる紙のドローイングを重ねて額装した作品もありました。それらの作品も謎めいていました。

ごく個人的な、画家の手によるドローイングの物語、その痕跡を強く見せながらも、極力そのストーリーを描かず、作品はただ残された物品として、誰のものでもなく、解釈や広がりは見る者に委ねられている。実際の意図とは違うとは思いますが、お二人の作品を見て、僕はそういう所が気になりました。全然違っていたらすみません、情けないです。

というのも、一応は絵画をやっている気持ちでいる人間として、今絵を描いている作家さんが何を選んで何を選ばないのか、絵を作る方針が気になるからです。今、描かなければいけない自分の「絵」があったとして、それを作品に、絵画に、「する」時、どういう方法を取るのか、そのやり方がそのまま作品の意味にも繋がるからです。ざっくり言ってしまえば、ドローイングから、イメージを剥ぎ取り、その身体性だけ取り出して、画家の手の痕跡を、遺物として作品化する。そのような手法が何処から来ているのかが、気になります。なぜならば、僕の制作上の問題とリンクしているからです。僕らの世代の問題とも言えるかもしれない。デジタルなこととも関わってくるかも。色々言うことが多いコンテンツです。しかしながら最近は、もうその問題が余りにも厄介なので考えないことにして、違うやり方で絵画を作ることに取り組んでいます、、、。何か問題に出くわしたら、正面から解決しようとせずに、何とかして取り合わないことにする、、、、その問題を考えないでいられるやり方を探るのが僕の癖になっています。逃げ癖です。


つづきはまた次回。大津絵の店に行ってきたことも書きたかったのですが。大津絵は面白い。絵の生存戦略として興味深い。

↓大津絵の木版画セット。

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